2009年01月16日
連載「尾張享元絵巻」9
御深井の丸から戻ると、宗春は姫のため停止(ちょうじ)された祭りを行なうよう、改めて触れを出した。八月二十二日から二十三日の一昼夜、町中の踊り組二百あまりを次々に城内に呼んで踊らせて見物し、褒美の金を与えた。その金の出所は、実は伊吹屋である。茶室を辞するとき伊吹屋は、
「ほんの手土産(てみやげ)をお小姓の方にお預けしております」
といって帰っていった。
小姓の星野(ほしの)織部(おりべ)が困惑した表情で宗春の傍らに寄り、告げた。
「千両箱を五つ・・置いてまいりました・・」
「貰うておけ。きゃつの儲けのほんの一部であろう。下々の喜びのために遣おうよ」
宗春はさらりと言ってのけた。
(伊吹屋の身元、いま少し詳しく調べさせた方がよさそうじゃな)
自分の施策が、質素倹約によって揺らぎかけた幕府をたて直そうとしている将軍吉宗といずれ鋭く対立することを、まだ宗春は気付いていない。
宗春は藩主の座に就(つ)くにあたって「温知政要」という書を著(あら)わし、藩士たちに配った。
藩士たちを訓戒する、という形をとっているが、自分がどのような姿勢、政治方針で藩政に望むか一種のマニュフェストといてもよい。平易な文章に、宗春の面目が躍如。
曰(いわ)く、
「自分の好みを、人に押し付けるな。人にはそれぞれの好みがあるを認めるを、仁(じん)という」
従来、この「温知政要」は質素倹約一点張りの吉宗への皮肉と批判の書とされてきた。
筆者は、その解釈をとらぬ。
宗春も吉宗も生母の出自は低い。が、吉宗の母は農民の娘、宗春の母は商家の娘という違いがあった。
原則自給自足、倹約が最上の美徳の農民と違い、商人(あきんど)は他者の活発な消費がなければ成り立たぬ。人格形成に大きく影響するのは、やはり母親の存在であろう。商人は行政の規制を好まぬ。人々が倹約して消耗品を長く使い続けるとしたら、商品は動かず商売は「あがったり」である。重箱の隅をつつくように介入することは「かえつて下の痛み」。
もう一つ、肥沃(ひよく)な濃尾(のうび)平野を抱え、吉宗の産まれた紀州よりずっと「もの成り」の豊かな尾張の人々は、身分の上下を問わず「質素倹約」といわれても、ぴんと来なかったというのが実情であろう。なにしろ三十袋銀一枚の「伊吹御神湯」が伊吹屋の連鎖販売商法にもかかわらず十年売れ続けた土地である。
紀州は、尾張ほど富んではいない。
財政は、一時期、最悪であった。渋る幕府に頼み込み、借金までした。
吉宗の兄綱紀(つなのり)は、五代将軍綱(つな)吉(よし)の唯一の子女鶴姫を娶(めと)ったため、一時は六代将軍の候補に擬されもした。だが、そのため莫大な交際費が要った。
火災で藩邸の新築、鶴姫、綱紀、隠居の光貞、次兄の頼(より)職(よし)と続いた不幸のための葬儀の費用、藩財政の圧迫。吉宗が紀州藩主となったとき財政は破産寸前となっていた。それを吉宗は徹底した質素倹約で切り抜け、名君の誉(ほま)れをもって将軍の座に就いた。
商人の側の宗春の発想と、農民の出の母を持つ吉宗のそれとが、相(あい)容(いれ)ぬものであったのは必然であろう。
「ほんの手土産(てみやげ)をお小姓の方にお預けしております」
といって帰っていった。
小姓の星野(ほしの)織部(おりべ)が困惑した表情で宗春の傍らに寄り、告げた。
「千両箱を五つ・・置いてまいりました・・」
「貰うておけ。きゃつの儲けのほんの一部であろう。下々の喜びのために遣おうよ」
宗春はさらりと言ってのけた。
(伊吹屋の身元、いま少し詳しく調べさせた方がよさそうじゃな)
自分の施策が、質素倹約によって揺らぎかけた幕府をたて直そうとしている将軍吉宗といずれ鋭く対立することを、まだ宗春は気付いていない。
宗春は藩主の座に就(つ)くにあたって「温知政要」という書を著(あら)わし、藩士たちに配った。
藩士たちを訓戒する、という形をとっているが、自分がどのような姿勢、政治方針で藩政に望むか一種のマニュフェストといてもよい。平易な文章に、宗春の面目が躍如。
曰(いわ)く、
「自分の好みを、人に押し付けるな。人にはそれぞれの好みがあるを認めるを、仁(じん)という」
従来、この「温知政要」は質素倹約一点張りの吉宗への皮肉と批判の書とされてきた。
筆者は、その解釈をとらぬ。
宗春も吉宗も生母の出自は低い。が、吉宗の母は農民の娘、宗春の母は商家の娘という違いがあった。
原則自給自足、倹約が最上の美徳の農民と違い、商人(あきんど)は他者の活発な消費がなければ成り立たぬ。人格形成に大きく影響するのは、やはり母親の存在であろう。商人は行政の規制を好まぬ。人々が倹約して消耗品を長く使い続けるとしたら、商品は動かず商売は「あがったり」である。重箱の隅をつつくように介入することは「かえつて下の痛み」。
もう一つ、肥沃(ひよく)な濃尾(のうび)平野を抱え、吉宗の産まれた紀州よりずっと「もの成り」の豊かな尾張の人々は、身分の上下を問わず「質素倹約」といわれても、ぴんと来なかったというのが実情であろう。なにしろ三十袋銀一枚の「伊吹御神湯」が伊吹屋の連鎖販売商法にもかかわらず十年売れ続けた土地である。
紀州は、尾張ほど富んではいない。
財政は、一時期、最悪であった。渋る幕府に頼み込み、借金までした。
吉宗の兄綱紀(つなのり)は、五代将軍綱(つな)吉(よし)の唯一の子女鶴姫を娶(めと)ったため、一時は六代将軍の候補に擬されもした。だが、そのため莫大な交際費が要った。
火災で藩邸の新築、鶴姫、綱紀、隠居の光貞、次兄の頼(より)職(よし)と続いた不幸のための葬儀の費用、藩財政の圧迫。吉宗が紀州藩主となったとき財政は破産寸前となっていた。それを吉宗は徹底した質素倹約で切り抜け、名君の誉(ほま)れをもって将軍の座に就いた。
商人の側の宗春の発想と、農民の出の母を持つ吉宗のそれとが、相(あい)容(いれ)ぬものであったのは必然であろう。
Posted by 渋柿 at 06:57 | Comments(0)