2009年01月14日

連載「尾張享元絵巻」6

「そうじゃの、折あらば躬(み)も直々(じきじき)に伊吹屋茂平と話してみたいものよ」
「な、なんと仰(おお)せられます」
「十年、破綻もせずにその商法の綱を渡ってまいったとすれば、さぞかし溜め込んでおろう。少々躬に融通してくれるやも知れぬ」
「殿お戯(たわむ)れを。騙りの上前をはねられるとは」
「戯れではない。日時はそちに任せるゆえ、伊吹屋を連れて参れ」
「捕らえるのではなく・・」
「客として招くのよ」
「―はっ」
付家老も太守の鶴の一声には逆らえぬ。
このことに限らず、宗春は竹越の杞憂(きゆう)を来たす命令を、既に多く発している。
宗春は、祭礼や祝いごとの規模を制限する倹約令を廃し、また武士の芝居見物の禁令を解いた。楽しみを与えるが藩主の務(つと)めと考えたゆえのことである。
 
夏の盛り。
御深井の丸は、名古屋城の北面に広がる、原生林を取りこんだ一郭である。
尾張初代藩主となる九男義(よし)直(なお)のために名古屋城を築いたとき、家康は城の北面に広がる湿地帯を「いざという時の逃げ場に」と教えた。
 義直はその言葉を守り、湿地の中央の沼を掘り広げて東西三丁(一丁は一〇八メートル)、南北二丁の大池とし、南岸に小島築き、湿地を乾かした。岸辺にはあずまやや茶屋を設け、外からは判らぬように危急の際の退避、逃亡や立てこもりに必要な設備を施した。深井の森という原生林の中にも、密かに逃げ道を造った。一見、城主の風流のための一郭のように見えて、その実、城の秘密の中枢なのである。
御深井の丸には、何人(なんびと)も藩主の許可なく立ち入れぬ。
 
その日、宗春はみずから亭主となって、池端の茶屋の一つにしつらいをし、伊吹屋を朝茶に招いた。今日も暑くなるのだろう、深井の森の蝉(せみ)時雨(しぐれ)がはや、かしましい。障子は開け放してあるので一面の蓮(はす)の花が見渡せる。
茶室のにじり口があいた。やせた老人が、作法どおり狭い入り口を潜り抜け、客の座まで膝行(しっこう)した。
「お招き、ありがとうございます」
白扇を畳の縁外に置き、一揖(いちゆう)するのも作法にかなう。
(武士の出、というは確かなようじゃ)
 宗春は風炉の釜にギヤマンの水差しから柄杓(ひしゃく)で数杯の水を差した。
水差しの蓋は、今朝宗春自身が、池で摘んだ緑鮮やかな蓮の葉である。床に活けてあるのも純白の蓮一輪。まだ開く前の蕾(つぼみ)である。
広口の、これもギヤマン造の夏茶碗に薄茶を立てた。蝉時雨が一段と高まる。息吹屋は自身膝行して碗をわが座に取り入れた。
「頂戴いたします」また一揖。
伊吹屋茂平は茶の心得並々ならぬと見える。



Posted by 渋柿 at 07:17 | Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。