2008年08月24日
小城の殿様、無言の上陸
>太明山本光寺 伊万里市山代町楠久
楠久津は、松浦党や鍋島水軍の歴史を持つ、古くからの港でした。
佐賀藩は、ここに長崎警護のための御船屋を設けました。参勤交代の旅船も発着しましたので、その諸手配もまた大事な役目で、管理をしたのは、支藩小城鍋島家です。
本光寺は、元和二年に数寺を併せ、鍋島藩祖直茂の孫で小城初代藩主の元茂を開基、楠久津の生まれでもあり、直茂の顧問的存在である菩提寺高伝寺住職不鉄桂文を開山として建てられました。
小城藩祖鍋島元茂は、父勝茂の長男として生まれました。しかし、父が徳川家康の養女と再婚し弟が誕生したために廃嫡され、祖父直茂の隠居領を継ぎました。
元茂は、三代将軍家光のお小姓頭をつとめました。幼児期祖父の許で育った元茂は、不鉄に深く精神的薫陶を受けたようです。
元茂が江戸で没したとき、船路で楠久に上陸した遺体は、通夜修行の名目でなんと二週間余、本光寺に留められました。鍋島家の菩提寺の高伝寺に埋葬するか否か、佐賀城の意見が対立していたからだそうです。当時、元茂が嫡子の座を譲った弟は早世し、甥の光茂が家督を継いでいました。元茂を菩提寺に葬れば、後々のお家騒動のもととなるという危惧があったのでしょう。曲折の末墓所は、祖父の多布施居館跡に建てられた、不鉄開山の宗智寺となりました。
本光寺に残る元茂の位牌は将軍家光夫人から与えられたという伝承もあり、御船屋に詰める小城藩士らの、「悲運の殿様」への参詣が、幕末まで絶えなかったということです。
その地楠久津は今、伊万里湾大橋の巨大なアーチが山紫水明の風光に新たな趣を加えています。
楠久津は、松浦党や鍋島水軍の歴史を持つ、古くからの港でした。
佐賀藩は、ここに長崎警護のための御船屋を設けました。参勤交代の旅船も発着しましたので、その諸手配もまた大事な役目で、管理をしたのは、支藩小城鍋島家です。
本光寺は、元和二年に数寺を併せ、鍋島藩祖直茂の孫で小城初代藩主の元茂を開基、楠久津の生まれでもあり、直茂の顧問的存在である菩提寺高伝寺住職不鉄桂文を開山として建てられました。
小城藩祖鍋島元茂は、父勝茂の長男として生まれました。しかし、父が徳川家康の養女と再婚し弟が誕生したために廃嫡され、祖父直茂の隠居領を継ぎました。
元茂は、三代将軍家光のお小姓頭をつとめました。幼児期祖父の許で育った元茂は、不鉄に深く精神的薫陶を受けたようです。
元茂が江戸で没したとき、船路で楠久に上陸した遺体は、通夜修行の名目でなんと二週間余、本光寺に留められました。鍋島家の菩提寺の高伝寺に埋葬するか否か、佐賀城の意見が対立していたからだそうです。当時、元茂が嫡子の座を譲った弟は早世し、甥の光茂が家督を継いでいました。元茂を菩提寺に葬れば、後々のお家騒動のもととなるという危惧があったのでしょう。曲折の末墓所は、祖父の多布施居館跡に建てられた、不鉄開山の宗智寺となりました。
本光寺に残る元茂の位牌は将軍家光夫人から与えられたという伝承もあり、御船屋に詰める小城藩士らの、「悲運の殿様」への参詣が、幕末まで絶えなかったということです。
その地楠久津は今、伊万里湾大橋の巨大なアーチが山紫水明の風光に新たな趣を加えています。
Posted by 渋柿 at 07:37 | Comments(1)