2011年04月15日
劉禅拝跪(9)
「ひ、非業も、兵家の習いじゃが」
まだ而立(じりつ)を過ぎたばかりで、健気にいう息子が切なかった。
「それより、鍾会が功を独り占めするだけで満足するでしょうか?」
鄧忠はもはや鍾会を将軍とも呼ばず、呼び捨てていう。
「ま、満足?」
「我等を捕らえるのに自分の手を下さず、軍監の衛瓘殿にやらせております。衛瓘殿に我等の捕縛を命じたのは、姜維の策に違いありませぬ。・・万一我等が抵抗し、配下も我等に付いたとしても、斬られるのは衛瓘殿。軍監は鍾会にとって眼の上の瘤じゃ。我等をすんなり捕らえられればよし、衛瓘殿が斬られるのもまた望むところ・・だったのでは」
「お、お前の推測は、当たっていよう」
蜀の人士を掌握して、それに対抗しようとしたが叶わなかった。
「では」
「しょ、鍾会と姜維は謀反を起す」
「悔しゅうございます。もはや、我等にはどうすることも・・出来ませんな」
鄧忠の思いは鄧艾の思いでもあった。
(征討の将軍として来た道を、謀反人、囚人として還るのも・・)
自分だけの巡り会わせではない。余りに多くの者を死なせた自分達父子の罪の償いに、生き恥を曝し死後の恥辱に甘んじる・・劉禅はそう語っていた。また、酒毒と戦うともいった。今は、それを信じたい。
そのように命じられていたらしい。護送に当たった衛瓘配下の鄧艾父子に対する扱いは、決してむごいものではなかった。食事も、野陣に慣れた身では十分に馳走(ちそう)と思えるものが供された。だが、一歩一歩、轍(わだち)が進むごとに洛陽が、賜死の運命が近付いていることは確かである。
(成都で元旦を迎えたというのに)
それから十日あまり、何と惨めな新春であろうか。
檻車の中にも、槍を持って護送する卒の背にも、鵞毛(がもう)のような雪が降りかかっていた。
(や!)
鄧艾は檻車の柵に両手を掛けた。
(もう、萌えはじめたか)
桃色や黄色の華やかな上衣を羽織った少女達が、あちこちで若草を摘んでいる。何か祭りでもあるのだろうか、檻車の進む路傍の日溜りにその姿は続いた。弟らしい、よちよち歩きの男児を連れた者もいる。
まだ緑浅く、摘み集めても湯掻けば僅かな嵩でも、羹や粥に春の香は添えられる。
振り返った。鄧忠も、自分の車の柵に身を寄せて草を摘む少女達を見ていた。
(子を、思うか)
軍務で洛陽にいるは稀であるのに、よくもまあ・・と朋輩に冷やかされるほどであった。鄧忠の妻は夫の帰宅の度に身籠り、三人の子がある。
(謀叛には・・連座の法がある)
自分だけが罪に問われるのなら、連座は鄧忠と洛陽の妻、次男の鄧孝だけで済む。だがもし鄧忠も同罪の濡れ衣を着なければならぬなら、鄧忠の妻の白氏も、三人の幼い孫も助からぬ。
司馬昭は、どのような裁きを下すだろうか。
(許してくれ・・)
鄧艾は、そっと頭を下げた。
(田続は・・配下の将卒たちは・・)
鄧艾の胸に、山中突破を決めた日のことが蘇える。
「無理でございます。兵達を皆殺しになさるおつもりですか!」
去年十月のあの日、将の田続は色をなして食って掛かった。鄧艾の陣である。たしかに、大将が言い出した作戦は、無謀というも愚かであった。
「だ、黙れ」
鄧艾は一喝(いっかつ)した。しかし田続は怯(ひる)まない。
「いえ、黙りませぬ。二か月の余も姜維の軍と戦って、将も卒も疲れ切っております。しばし休ませるが常道」
「せ、戦線が、膠着(こうちゃく)してからでも、一月になる。他にこの状況を切り拓く方法が、あるか」
二手に分かれて蜀に攻め込んだ征西将軍・鄧艾も鎮西将軍・鍾会も、蜀盆地の唯一の入口の剣閣を姜維にしっかりと守られ、身動きはとれない。
「もう十月でございます」
田続が哀切な声をあげた。旧暦である。
「夏でも、蜀の山路は厳しいもの。今まで共に辛酸を舐(な)めてきた兵達を、この上また酷寒、道も無き山中に追われますのか」 .
まだ而立(じりつ)を過ぎたばかりで、健気にいう息子が切なかった。
「それより、鍾会が功を独り占めするだけで満足するでしょうか?」
鄧忠はもはや鍾会を将軍とも呼ばず、呼び捨てていう。
「ま、満足?」
「我等を捕らえるのに自分の手を下さず、軍監の衛瓘殿にやらせております。衛瓘殿に我等の捕縛を命じたのは、姜維の策に違いありませぬ。・・万一我等が抵抗し、配下も我等に付いたとしても、斬られるのは衛瓘殿。軍監は鍾会にとって眼の上の瘤じゃ。我等をすんなり捕らえられればよし、衛瓘殿が斬られるのもまた望むところ・・だったのでは」
「お、お前の推測は、当たっていよう」
蜀の人士を掌握して、それに対抗しようとしたが叶わなかった。
「では」
「しょ、鍾会と姜維は謀反を起す」
「悔しゅうございます。もはや、我等にはどうすることも・・出来ませんな」
鄧忠の思いは鄧艾の思いでもあった。
(征討の将軍として来た道を、謀反人、囚人として還るのも・・)
自分だけの巡り会わせではない。余りに多くの者を死なせた自分達父子の罪の償いに、生き恥を曝し死後の恥辱に甘んじる・・劉禅はそう語っていた。また、酒毒と戦うともいった。今は、それを信じたい。
そのように命じられていたらしい。護送に当たった衛瓘配下の鄧艾父子に対する扱いは、決してむごいものではなかった。食事も、野陣に慣れた身では十分に馳走(ちそう)と思えるものが供された。だが、一歩一歩、轍(わだち)が進むごとに洛陽が、賜死の運命が近付いていることは確かである。
(成都で元旦を迎えたというのに)
それから十日あまり、何と惨めな新春であろうか。
檻車の中にも、槍を持って護送する卒の背にも、鵞毛(がもう)のような雪が降りかかっていた。
(や!)
鄧艾は檻車の柵に両手を掛けた。
(もう、萌えはじめたか)
桃色や黄色の華やかな上衣を羽織った少女達が、あちこちで若草を摘んでいる。何か祭りでもあるのだろうか、檻車の進む路傍の日溜りにその姿は続いた。弟らしい、よちよち歩きの男児を連れた者もいる。
まだ緑浅く、摘み集めても湯掻けば僅かな嵩でも、羹や粥に春の香は添えられる。
振り返った。鄧忠も、自分の車の柵に身を寄せて草を摘む少女達を見ていた。
(子を、思うか)
軍務で洛陽にいるは稀であるのに、よくもまあ・・と朋輩に冷やかされるほどであった。鄧忠の妻は夫の帰宅の度に身籠り、三人の子がある。
(謀叛には・・連座の法がある)
自分だけが罪に問われるのなら、連座は鄧忠と洛陽の妻、次男の鄧孝だけで済む。だがもし鄧忠も同罪の濡れ衣を着なければならぬなら、鄧忠の妻の白氏も、三人の幼い孫も助からぬ。
司馬昭は、どのような裁きを下すだろうか。
(許してくれ・・)
鄧艾は、そっと頭を下げた。
(田続は・・配下の将卒たちは・・)
鄧艾の胸に、山中突破を決めた日のことが蘇える。
「無理でございます。兵達を皆殺しになさるおつもりですか!」
去年十月のあの日、将の田続は色をなして食って掛かった。鄧艾の陣である。たしかに、大将が言い出した作戦は、無謀というも愚かであった。
「だ、黙れ」
鄧艾は一喝(いっかつ)した。しかし田続は怯(ひる)まない。
「いえ、黙りませぬ。二か月の余も姜維の軍と戦って、将も卒も疲れ切っております。しばし休ませるが常道」
「せ、戦線が、膠着(こうちゃく)してからでも、一月になる。他にこの状況を切り拓く方法が、あるか」
二手に分かれて蜀に攻め込んだ征西将軍・鄧艾も鎮西将軍・鍾会も、蜀盆地の唯一の入口の剣閣を姜維にしっかりと守られ、身動きはとれない。
「もう十月でございます」
田続が哀切な声をあげた。旧暦である。
「夏でも、蜀の山路は厳しいもの。今まで共に辛酸を舐(な)めてきた兵達を、この上また酷寒、道も無き山中に追われますのか」 .
Posted by 渋柿 at 06:19 | Comments(0)