スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新の無いブログに表示されています。
新しい記事を書くことで広告が消せます。
  

Posted by さがファンブログ事務局 at 

2011年04月05日

劉禅拝跪(1)

(何だ、この男は)
 跪(ひざまず)く蜀帝劉禅を見て、魏の征西将軍鄧艾は驚いた。
 
 棺(ひつぎ)を載せた車の脇で、冠を去り裸足(はだし)、白絹で身を縛(しば)った姿は降伏の作法に則(のっと)っていた。だが、跪き叩頭(こうとう)する肩が、どう見てもふらふらと揺れている。

(酔っているのか)
 
 ゆっくりと頭を上げたが、瞳はとろんと濁(にご)り、焦点が合っていない。
(これがあの、群雄逐鹿(ぐんゆうちくろく)の乱世を生き残り、蜀の国を建てた、英雄劉備(りゅうび)の息子か)

 自分とそう変わらぬ五十路の筈である。だがその四肢(しし)は、長年の酒色に荒み切っていた。

 「降伏いあします。この身あいかおうにも」 

 ろれつも危うい。

 降伏の証拠(しるし)、背後に聳(そび)え立つ成都の城門の楼柱(ろうちゅう)には、結んだ白裂(しろきれ)が夥(おびただ)しく風に吹かれている。鄧艾も降を受ける作法通り、劉禅の縛(いまし)めを解き、引いてきた棺を破壊させた。

「りゅ、劉禅殿、御身の安全は保障いたす。い、いずれ洛陽(らくよう)に赴いて頂くが、それまではここ、後殿にて・・」
 
 吃音(きつおん)は鄧艾生来の、宿瘂(しゅくあ)である。居並ぶ蜀臣達から失笑が出るかと思ったが、その場は水を打ったように静かであった。鄧艾が魏将として蜀軍と死闘を繰り広げて十数年になる。吃音将軍のことは皆承知しているようだった。

「ははっ」

 劉禅は叩頭する。

 漢末の群雄の潰し合いの後、天下はこの四十余年、生き残った曹氏の魏・孫氏の呉・劉氏の蜀による三分した状態のままだった。魏の景元四年(二六三)は呉の永安六年であり、蜀の炎興元年であった。十月は、すでに冬といってよい。ここに魏の征西将軍鄧艾は成都を陥落させ、蜀を滅ぼした。

 蜀臣が進み出て膝まずき、魏に奉呈すべき蜀の地籍を読み上げた。領戸二十八万、男女人口九十四万人、帯中将士十万二千人、吏四万人、米四十四万石、金銀二千斤、錦綺二十万匹・・・

(誇張か?)

 鄧艾は一瞬耳を疑う。これだけの力が残っておれば、兵糧といい、兵力といい、まだまだかなりの抵抗ができたかもしれなかった。

(いや、賢明な判断か)

 武人として見れば、敵とはいえ蜀帝の降る姿は見苦しくさえある。だが、一時持ちこたえたとしても、魏の権力者、大将軍司馬昭の許には都洛陽に数十万の兵力がある。漢中には、今回、二手に別れて攻め込んだもう一方の軍、鎮西将軍鍾会が、十万の兵を擁している。反撃で一時は持ちこたえても、蜀の果てには絶望的な全滅しかない。

 ともあれ、鄧艾は目録を受け、蜀の最後の国材を接収した。昭烈帝劉備の建国した蜀漢は享国四二年、ここに滅亡したのである。

 ややあって頭を上げ、劉禅はいった。

「鄧艾将軍、既に剣閣(けんかく)お姜維には・・魏にくあるよう厳しう命じあした」
「な、何と」
「今頃あ武装を解き、鐘会(しょうかい)将軍い降っていう筈でございあす」

(しまった!)

 鄧艾はこの十年、魏蜀国境において、蜀の大将軍姜維と死闘を演じて来た。

(骨の髄まで、漢王朝再興劉氏による天下再統一の信念が染みた男が、生き残った)

 劉禅に降伏を厳命されなければ、姜維は成都が陥落しようと降伏はしなかっただろう。もっとも抵抗を続けようにも、王城も陥(お)ちたといえば、将卒の士気が奮うはずはない。

(結局、自害するか、全滅するかしかない筈だった)

 現に劉禅の子の一人劉諶(りゅうしん)は、降伏に断固反対して、降伏の使者が発せられるや妻子と共に自害している。死に場所は、祖父劉備の墓所であった。

「い、いつ、使者を・・」
「貴殿い降伏お決まって、すう、早馬を」

 地籍の簿(ぼ)も整理して差し出してもらわねばならぬ。それに降伏とあらば他にもいろいろと整理することもあろう・・といわば武人の情け、正式の降伏まで時間を猶予したことが、重大な結果をもたらした。蜀の旧主の命に服し降伏した姜維を、自分はもちろん剣閣で対峙している魏将鍾会も、公式に処断することはできない。

 姜維は漢中を魏に奪われた後、天険の蜀盆地の喉許の剣閣の砦を固く守り、魏兵を一人たりとも入れぬ構えを取っていた。自分に可能な限りの兵力を投入していた筈である。

 剣閣を通らねば成都へは行けぬ。誰が考えても、ここさえ守れば、であり、ここさえ陥とせば・・の筈だった。

 睨み合いは膠着状態。その間隙を縫って剣閣を迂回、鄧艾は姜維の背後の冬の蜀の天険を突破して、成都を陥落させたのだ。

 それは成功する可能性は極めて少ない作戦であり、あくまでも剣閣を死守しようとした姜維の判断は、決して間違ってはいない。

(それだけに、悔しかろう。暗殺、か。いや、剣閣の地にあるは鍾会。あの男が、折角(せっかく)手中にした持ち駒を捨てることはあるまい)

 実のところ、魏軍は内訌、いや造反の兆しすら抱えている。
 
 鄧艾より二回りも若い、もう一人の司令官、鍾会。先祖は楚の錘離昧将軍という。父は漢の司隷校尉、曹操の許で活躍した。名門である。だが、何を考えているのか、その目だけが笑わぬ笑顔や薄い唇が心許せぬ。はっきりいえば野心家で、鄧艾とは反りが合わない。

 そもそも魏の廟堂でも鍾会を鎮西将軍として大軍を預け、派遣することに反対の声は多かった。確かに、危険な賭けであった。
(姜維とその軍事力を、温存してしまった。しかも、あの鍾会の許で)
 鐘会は漢中に大軍を擁している。彼が今まで成都を攻略できなかったのは、要害の地に、姜維が堅い守りをしていたからであった。情勢が、一変した。悔いても帰らない。

 それにしてもあの混乱の中で姜維に急使を派するとは、と、とろんとした眼の劉禅の顔を見直した。

(この男、ただの愚者か?) .  


Posted by 渋柿 at 20:15 | Comments(0)