2015年06月06日

鯰酔虎伝 13

 伝染っちゃ大変です、大家さんの所へというのを馬鹿野郎と一喝して、部屋に湯気を立ててすっかり着替えさせる。

(師弟といえば、な・・¬)

 親子も同然だ。朝顔は一瞬身を硬くしたが、お願いしますと小さな声でいった。任せとけ。今更、肌の香りなんかにびびるかよ。

 冷え込む夜が明けるまで、まんじりともせず朝顔の枕元で濡れタオルを替えた。

 さつき・・お前もこんな風に熱は高かった。お前だけでも助けたかった・・

 積もらなくって良かったねぇ、鍵の掛かっていないドアが開いて、婆さんが顔を出した。

「鯰さん、おはよう。碧ちゃん、どう?」

 朝顔の本名は藤田碧。婆さんと向かいの爺さん達は、朝顔をまだ碧ちゃんと呼んでいた。

「うん、まあ・・」
 
 今は、静かな寝息を立てている。

 洗濯物出てるんだろ、序でだ、出しなというのを謝絶して、重ね着の重装備、コインランドリーに向かった。

 乾燥機の中で絡みつつ回る、自分の猿股と朝顔のブラジャーを、暫くぼんやり見ていた。七十過ぎの爺と若い女のこんな暮らし、誰が見たって訳が判らないだろうな。

「すいません」

 乾いた洗濯物を抱えて部屋に戻ると、朝顔が薄く目を開けた。

「インフルエンザ甘く見ちゃいけねえぜ」

 俺はこれで、女房子失くしたんだ・・ちゃちな食器棚の上の位牌を見る。

 保険料滞納してて、健康保険使えなかった。どうせ風邪に特効薬はないんです、女房は熱で喘ぐ幼い娘にひたすら冷ました茶を飲ませ、徹夜で幾晩も看病し、自分も倒れちまった。切羽詰って往診を頼んだ医者は、二人とももう手遅れだといった・・

「汗かいたろう、拭いてやるよ」

 一番大きな鍋に湯を沸かした。寒い部屋に湯気がもうもうと立つ。

「師匠、伝染ります」

「俺は、そんなヤワじゃねえよ」

 女房子が罹っても・・何ともなかったんだ。

体を拭いている最中、携帯が鳴った。三道楽ひるね、寄席で時間配分その他を仕切る、豊島演芸場の立前座からだ。

「はい、夕顔亭」

 片手で、新しい肌着と寝間着を着せかける。

「鯰師匠ですか、ひるねです。えっ・・師匠、何してるんですか!」

 喘ぎと気配に、びびってやがる。

「馬鹿野郎、朝顔が着替えてるだけだよ。四畳半に二人で暮らしてるなあ、知ってるだろ」

「すいません・・朝顔姐さん、今日昼席のさらなのに、楽屋入りまだだったんで」

「すまなかった。インフルエンザみたいなんだ。他の奴にたっぷり演ってくれって、頼んでくれねえか」

 途中掻い摘んだりぶった切ったり、また情景描写やキャラクター設定付け足したり、都合に合わせて伸縮自在なのが落語だ。

「判りました・・お大事に」

 朝顔が寄席抜くのは、これが初めてだ。


 若いし、安静にしてれば治りますよ・・おりん婆さんのご注進で大家経由、往診に来た町医者は、薬の処方もしなかった。きっとこっちの懐事情を見たんだろう。夜になってから、朝顔は昨夜のすいとんを少し口にした。

 片付けをしながら、焼酎に手が伸びる。一杯二杯の三杯目、師匠、朝顔が睨んだが、昨日飲まなかったんだと振り切って呷った。

 ほっとしたんだ、飲ませてくれよ。



Posted by 渋柿 at 18:13 | Comments(0)
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