2015年05月19日

鯰酔虎伝 9

 居候は、辛い。結局朝顔の部屋で、荷物の畳紙を開く羽目になった。

「前座の楽屋仕事はまず師匠方の着替えの手伝いと着物畳みだ、覚えとくんだぜ」

 足袋も前座に履かせる奴もいるからな、気を付けるんだ、立っちゃいけない、膝をついて、ほれ襦袢、細帯、そう前を合せて、帯だよ、その博多の献上の、羽織、そうだ、紐はそう緩くな・・妙に着付けに慣れてやがる。

「師匠、ガンバレですか?」

 「ガンバレ」は立って踊り歌い倒す、鯰看板の新作落語。今は殆どこれしか演らない。

「馬鹿野郎、文七元結だ」

「ええ、文七元結・・」

 驚いてやがる。まあ、本格で演ったら一時間を超す、古典落語の最高峰だからな。

「このアパート、長いんだろ」

「はい、大学入ってから、ずっと」

「随分可愛がられたんだろうな、大家さんに」

「お父さんが、伊万里の生まれなんです。東京に出てお巡りさんになってこのアパート建てて、それ息子さんが引き継いで・・」

「そりゃなおの事、お前が変な爺さん連れ込んだんだ、気が気じゃないだろうよ」
 
 心配するな、三道楽圓幽仕込みの人情噺、たっぷり本格本寸法で聞かせてやらあ。

「俺を誰だと思ってるんだ」

「は?」

「天下の夕顔亭鯰だぞ」

「知ってます、落研の頃から」

(・・そりゃ、メモにゃあなかったぜ)

 あの落研てえとこの二十何年、真打輩出してるとこじゃねえか。こちとら都の西北卒ってだけでびびってたのによ。道理で着物慣れしてて、流行らない怪談噺まで知ってる訳だ。圓幽京の輔も呼び捨て、俺の芸値踏みまでしやがって・・生意気な筈だぜ。

 爺さんが二人、婆さんが一人、あとはとても勤め人とは思えない髪の長い兄ちゃんと、眼鏡の学生、それに大家夫婦・・判じもんの様な客を前にして、「文七元結」を演った。
 
 なあに、大ネタの人情噺ったって煎じ詰めりゃあ江戸っ子のやせ我慢・・くすぐりにはちゃんと笑い、世話場にしんみりし、最後に七人の客は目いっぱい拍手をしてくれた。

 あれから、野垂れ死なず家賃も溜めず二年。



Posted by 渋柿 at 18:15 | Comments(0)
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