2011年04月21日
劉禅拝跪(15)
魏の景元五年(二六四)が、改元により咸熙元年となった五月。
「劉禅殿、ちと庭を散策しましょうかの」
初夏、そろそろ炎暑の兆しを見せ始めた洛陽の、晋王司馬昭の王宮である。大将軍司馬昭は去年臘月、それまで謙譲の態で固辞し続けていた晋公の位を受け、今年始めには晋王となった。魏公から魏王となり漢を簒奪した曹氏と全く同じ道を歩んでいる。長く続いた魏呉蜀の三国鼎立も、蜀は魏に降り、その魏は晋に簒奪されようとしている。
統一の途上、残るは呉のみである。
魏に降った劉禅は洛陽に連行された。父劉備が生れた地である所縁で幽州安楽県の安楽公に封じられたが、そこに赴任できるわけではない。身は、洛陽に幽閉されたままである。
今日の宴は、司馬昭の招きによる。
劉禅は主賓であった。蜀の音楽が奏されて、艶やかな妓女が舞う。蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。
新たに王太子に冊立した長子の司馬炎を傍らに座させた司馬昭が、
「蜀を思い出されることでござろうな」
と尋ねたが
「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」
と答えた。
無論、酒は飲まない。鄧艾との誓いは破れぬ。皮袋に手巾を詰めて懐中した。爵を挙げてはそっと袋に酒を吸わせる。
鄧艾に禁酒を誓った日からが、劉禅の真の戦いであった。己を縛らせた。酒への乾きにのた打ち回った。・・そして勝った。
陪席していた旧臣に目配せした。心得て、臣は座の耳に届くか否か、微妙な声音でいう。
「公、あのような問いがあれば、先祖の墳墓も蜀にありますので西のくにを思って悲しまぬ日とてありませぬ、とお答えください」
ほう、と司馬昭がこちらを見た。
一曲が終わり、司馬昭はまた、
「蜀を思い出されることでござろうな」
と問う。
今度は臣に言われた通りを答えた。同席した魏臣が失笑する。
その直後、である。
「いかがでござろう、酔い覚ましに」
「はい、お供いたします」
廊から宮の階を降り、宴席の向こう、泉水の設えられた庭の小亭に招じられる。
「そなたら、外せ」
司馬昭は、扈従して来た二人の卒を下がらせた。どこぞ病か?とふと思った。皮膚に艶がなく、眼の下が黒ずんでいる。しかし、眼光と声音には、刃のような鋭さを隠している。
「良い庭でございますな」
劉禅は褒めた。柳や柏が青々と茂り、水面には睡蓮が咲いている。
「劉禅殿の賢には及びませぬ」
「我が、賢?」
きつい皮肉だ、と思った。
「先ほどより懐の皮袋が、大分聞こし召されたご様子」
「は、お見通しでございましたか」
「はは、劉禅殿、ここでは韜晦は無用でございますぞ」
司馬昭は笑う。
亭は柱と屋根のみ、壁はない。二人の姿は丸見えであるが、近付く者もまた見える。何びとも、二人の話を盗み聞くことはできぬ。
「ご存知でしたか」
予感は、あった。
「酒毒から立ち直られたと」
「鄧艾殿のお陰で・・」
「存じております」
(間諜の報告・・)
敵方ばかりではなく、味方の部下の許にまで細かく直属の間諜を放ち、すべてを掌握しているという噂は、本当らしい。
当然、自分が監禁されていた後殿にも、その眼は光っていたのであろう。
「もっと早く、降るべきでしたが」
「何の、お陰をもち犠牲少なく済みました」
俯く胸元の皮袋から、酒精が匂う。 .
「劉禅殿、ちと庭を散策しましょうかの」
初夏、そろそろ炎暑の兆しを見せ始めた洛陽の、晋王司馬昭の王宮である。大将軍司馬昭は去年臘月、それまで謙譲の態で固辞し続けていた晋公の位を受け、今年始めには晋王となった。魏公から魏王となり漢を簒奪した曹氏と全く同じ道を歩んでいる。長く続いた魏呉蜀の三国鼎立も、蜀は魏に降り、その魏は晋に簒奪されようとしている。
統一の途上、残るは呉のみである。
魏に降った劉禅は洛陽に連行された。父劉備が生れた地である所縁で幽州安楽県の安楽公に封じられたが、そこに赴任できるわけではない。身は、洛陽に幽閉されたままである。
今日の宴は、司馬昭の招きによる。
劉禅は主賓であった。蜀の音楽が奏されて、艶やかな妓女が舞う。蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。
新たに王太子に冊立した長子の司馬炎を傍らに座させた司馬昭が、
「蜀を思い出されることでござろうな」
と尋ねたが
「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」
と答えた。
無論、酒は飲まない。鄧艾との誓いは破れぬ。皮袋に手巾を詰めて懐中した。爵を挙げてはそっと袋に酒を吸わせる。
鄧艾に禁酒を誓った日からが、劉禅の真の戦いであった。己を縛らせた。酒への乾きにのた打ち回った。・・そして勝った。
陪席していた旧臣に目配せした。心得て、臣は座の耳に届くか否か、微妙な声音でいう。
「公、あのような問いがあれば、先祖の墳墓も蜀にありますので西のくにを思って悲しまぬ日とてありませぬ、とお答えください」
ほう、と司馬昭がこちらを見た。
一曲が終わり、司馬昭はまた、
「蜀を思い出されることでござろうな」
と問う。
今度は臣に言われた通りを答えた。同席した魏臣が失笑する。
その直後、である。
「いかがでござろう、酔い覚ましに」
「はい、お供いたします」
廊から宮の階を降り、宴席の向こう、泉水の設えられた庭の小亭に招じられる。
「そなたら、外せ」
司馬昭は、扈従して来た二人の卒を下がらせた。どこぞ病か?とふと思った。皮膚に艶がなく、眼の下が黒ずんでいる。しかし、眼光と声音には、刃のような鋭さを隠している。
「良い庭でございますな」
劉禅は褒めた。柳や柏が青々と茂り、水面には睡蓮が咲いている。
「劉禅殿の賢には及びませぬ」
「我が、賢?」
きつい皮肉だ、と思った。
「先ほどより懐の皮袋が、大分聞こし召されたご様子」
「は、お見通しでございましたか」
「はは、劉禅殿、ここでは韜晦は無用でございますぞ」
司馬昭は笑う。
亭は柱と屋根のみ、壁はない。二人の姿は丸見えであるが、近付く者もまた見える。何びとも、二人の話を盗み聞くことはできぬ。
「ご存知でしたか」
予感は、あった。
「酒毒から立ち直られたと」
「鄧艾殿のお陰で・・」
「存じております」
(間諜の報告・・)
敵方ばかりではなく、味方の部下の許にまで細かく直属の間諜を放ち、すべてを掌握しているという噂は、本当らしい。
当然、自分が監禁されていた後殿にも、その眼は光っていたのであろう。
「もっと早く、降るべきでしたが」
「何の、お陰をもち犠牲少なく済みました」
俯く胸元の皮袋から、酒精が匂う。 .
Posted by 渋柿 at 10:56 | Comments(0)