2011年04月16日

劉禅拝跪(10)

「いえ、黙りませぬ。二か月の余も姜維の軍と戦って、将も卒も疲れ切っております。しばし休ませるが常道」

「せ、戦線が、膠着(こうちゃく)してからでも、一月になる。他にこの状況を切り拓く方法が、あるか」

 二手に分かれて蜀に攻め込んだ征西将軍・鄧艾も鎮西将軍・鍾会も、蜀盆地の唯一の入口の剣閣を姜維にしっかりと守られ、身動きはとれない。

「もう十月でございます」

 田続が哀切な声をあげた。旧暦である。

「夏でも、蜀の山路は厳しいもの。今まで共に辛酸を舐(な)めてきた兵達を、この上また酷寒、道も無き山中に追われますのか」

「は、春まで待てというか。折角漢中を陥とし、い、今一歩というところで敵に時を稼(かせ)がせる訳にはいかぬ」

「いえ、蜀の山中を突破しようなどとは無理。山中に難渋(なんじゅう)し、姜維に退路を断たれたら、我等は全滅ですぞ」

「ぜ、全滅じゃと」

「馬はどうなさいます」
 鄧艾の声に負けず、田続は言葉を返す。

「険しい山路を馬を連れては行けぬ。じゃが、蜀に降り立って成都を攻めるに、馬がなくては戦えぬ。兵糧とて」

「や、山路を抜けてから、購えばよい」

 司馬昭から、軍資としてかなりの銀は与えられていた。

 漢朝が衰微してから、貨幣経済は麻痺したに等しい。適宜の大きさに作られた金銀、場合によっては布や穀物が、貨幣の代わりとして流通している。

 田続のいう通り、崖をよじ登る山中迂回に、馬は伴えない。また人力のみで運べる兵糧には限りがある。しかし、盆地に降り立ち蜀兵と戦うには、大量の兵糧と馬が不可欠である。

「敵国の民ですぞ。売ってくれる筈は・・」
「だ、黙れ!」
 鄧艾は先ほどより更に声を大きくした。

(国力を疲弊させる北伐を続け、苛斂誅求で民心は離れている筈だ)
 鄧艾には確信がある。

「しゅ、出陣は、決まったことじゃ。その門出に不吉な言辞を弄するとは、ゆ、許せぬ、誰かある」
 鄧艾は、怒りを演じた。

「はい」
 侍立(じりつ)していた卒が、拱手(きょうしゅ)する。

「斬れ!」

  田続は、憤然とその場に胡座(こざ)した。
 
 すばやく、息子の鄧忠に目配せする。鄧忠も心得て、鄧艾の前に跪いた。

「父上、お許しください。田続殿はただ、兵の疲れを憐れんだのでございます」
 
 鄧艾は、田続の顔をじっと見据えた。田続も胡座したまま鋭く見返す。
 鄧艾が刀を抜いた。

(ご自身で首を刎(は)ねられる)
 一同は凍りついた。
 
 鄧艾はしかし剣を鞘に納め、改めて腰から外した。田続に近付き、その手に自分の剣を渡して同じように胡座する。

「ど、どうしても山中突破に反対なら、その剣で儂を、殺せ」
「将軍!」
 
 将が自分の佩剣(はいけん)を部下に貸し与えるとは、その剣をもって成したこと全てに責任を持つことを意味する。ここで、「自分を殺せ」という命に従っても責められない訳である。だが無論それは建前、それにこの場合は「どうしても自分の命令に反対なら」という条件節が付いている。

 そうするしか・・ないか、と、田続は、一旦は思った筈である。佩剣の乗せられた自分の掌(てのひら)を、見ている。山中突破を止めさせるためには、ここで鄧艾を殺すしかない。そして後日、罪を問われれば殺されるまでのこと、と。それで、五万の兵は死なずにすむ。

 田続は、一旦掌の中の剣の柄を握った。冬というのに、額を汗が伝う。

「田続殿」
 鄧忠も、父の傍らに胡座した。

「父上は鍾会将軍と軍監衛瓘殿の前で、山中を突破して成都を突くと明言なされた。陣中に戯言なし。事成るか、死ぬか、我等父子の道は二つに一つ。飽くまで山中突破に反対なら、ここで我等の首を刎ねて頂こう」
 
 その場に、期せずして嘆息が起こった。 .



Posted by 渋柿 at 06:57 | Comments(0)
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