2011年04月12日
劉禅拝跪(6)
「・・これが乱世でなければ、姜維とは妻子ぐるみ、仲の良い付き合いが叶うた・・とは思われませんかな」
劉禅は、酒精の息を吐いた。鄧艾は酒壺の柄杓を取り、爵に酒を満たし一気に呷る。
「りゅ、劉禅殿、見事な韜晦(とうかい)でしたな」
劉禅はゆっくりと頷いた。
「父の志は継がぬ、魏を撃つ事は諦める、滅ぼされるならそれもよい、ただただ天許す間、蜀の要害の内で退嬰を貪ろう・・などと本音を口にしておったら、殺されておりましたでしょうな」
「姜維に?」
「というより父と孔明の亡霊に。漢朝復興、これはもう神懸りでございますよ。蜀の臣の口癖は、誰も彼も、先帝のご恩に報いるため、でございました」
そういうことか。不可解な軍事記録の謎も、これで解ける。
「臣下だけではない。劉諶は・・」
また、劉禅は酒精を吐いた。
「先帝の廟で妻子と共に・・自害して祖父のこころざしに殉じた」
「おお、おん五男ですな」
「笑うて下され、わが子すら漢朝復興の亡霊の虜にしてしもうた。太子としておりました劉叡も、姜維と肝胆会い照らしておりましてなあ」
「ご長子・・」
「姜維も、我が韜晦には気付いておった。それは気付こうよなあ。忠義であろうと、ずいぶん苦しんでおったようだが・・鄧艾将軍の進攻がいま少し遅ければ、姜維は劉叡を擁立しておったかも知れぬ。私を押し込めるか、殺すかして、の。そこへまさか、あの天険を越えて鄧艾殿が空から降って来るとは」
(危ういところだった)
戦場での危機を切り抜けたときに増さる戦慄が、鄧艾を襲う。
もし劉禅が廃位され、漢朝復興の「こころざし」に凝り固まった太子が即位していたとしたら、蜀だけでなく攻める魏兵側も、膨大な犠牲をだしたであろう。
「み、巫女を使われたことも、ああ・・」
劉禅は巫(ふ)道(どう)に親しみ、鍾会侵入で漢中が急を告げた時でさえ、巫女の託宣に、漢中が陥ちることはないと出た、と援軍を送らなかったという。
「はい。苦し紛れ、神懸りには神懸りで。もはや姜維に我が掣肘は効かぬかと思いましたれど」
「そ、その託宣で出された詔勅に、この何年、何度た、助けられたことか」
「それは重畳(ちょうじょう)。我が国の将卒だけでなく・・魏の兵も救っておりましたか」
「しゅ、酒色に耽(ふけ)っての浪費で、国庫を傾けたというも・・」
「はい、軍備に廻る費えを減らそうつもりも少しは。もっとも、姜維がその数十倍、北伐に遣うてくれましたが」
そういって劉禅は寂しく笑った。この時代、戦の鍵は兵糧である。かつて、魏の曹操は、兵糧の穀物確保のため酒の醸造を厳しく制限したという。まさか劉禅一人で数万人の兵糧を飲みつぶしもしまいが・・一時が万事、帝が率先して士気を挫いていた。
「りゅ、劉禅殿・・本当に酔っておられるのか。理路整然としたお言葉、柄杓の酒一滴も溢さぬお手許・・」
「はは、酒飲みは酒に卑しい、めったに溢さぬだけのこと。・・はい、父が黄巾の乱の折、乱れた世を何とかしたいと志を立てたことまで、間違っていたとは思いませぬ。が、漢こそ正義、漢朝の威光が蘇れば世は救えると思い込んだは時代の錯誤。・・ささ鄧艾殿」
劉禅は、卓に置かれた自分と鄧艾の爵に酒を満たした。やはり緩慢だが、溢さない。
「韜晦のための酒、の筈でした。それが酒の毒に取り付かれ・・お笑いください、酒の気が切れると五体が震え、話すも歩むもままなりませぬ」
「りゅ、劉禅殿・・」
「降る日はさすがに酒を断とうと致しましたが・・見えたのですよ」
「み、見えた?」
「床にも、卓の上にも・・それこそ無数の、蟻のように小さい兵が、殺し合って。・・私ももう、長くはないようじゃ」
劉禅の横顔に、凄絶(せいぜつ)な笑みが浮ぶ。 .
劉禅は、酒精の息を吐いた。鄧艾は酒壺の柄杓を取り、爵に酒を満たし一気に呷る。
「りゅ、劉禅殿、見事な韜晦(とうかい)でしたな」
劉禅はゆっくりと頷いた。
「父の志は継がぬ、魏を撃つ事は諦める、滅ぼされるならそれもよい、ただただ天許す間、蜀の要害の内で退嬰を貪ろう・・などと本音を口にしておったら、殺されておりましたでしょうな」
「姜維に?」
「というより父と孔明の亡霊に。漢朝復興、これはもう神懸りでございますよ。蜀の臣の口癖は、誰も彼も、先帝のご恩に報いるため、でございました」
そういうことか。不可解な軍事記録の謎も、これで解ける。
「臣下だけではない。劉諶は・・」
また、劉禅は酒精を吐いた。
「先帝の廟で妻子と共に・・自害して祖父のこころざしに殉じた」
「おお、おん五男ですな」
「笑うて下され、わが子すら漢朝復興の亡霊の虜にしてしもうた。太子としておりました劉叡も、姜維と肝胆会い照らしておりましてなあ」
「ご長子・・」
「姜維も、我が韜晦には気付いておった。それは気付こうよなあ。忠義であろうと、ずいぶん苦しんでおったようだが・・鄧艾将軍の進攻がいま少し遅ければ、姜維は劉叡を擁立しておったかも知れぬ。私を押し込めるか、殺すかして、の。そこへまさか、あの天険を越えて鄧艾殿が空から降って来るとは」
(危ういところだった)
戦場での危機を切り抜けたときに増さる戦慄が、鄧艾を襲う。
もし劉禅が廃位され、漢朝復興の「こころざし」に凝り固まった太子が即位していたとしたら、蜀だけでなく攻める魏兵側も、膨大な犠牲をだしたであろう。
「み、巫女を使われたことも、ああ・・」
劉禅は巫(ふ)道(どう)に親しみ、鍾会侵入で漢中が急を告げた時でさえ、巫女の託宣に、漢中が陥ちることはないと出た、と援軍を送らなかったという。
「はい。苦し紛れ、神懸りには神懸りで。もはや姜維に我が掣肘は効かぬかと思いましたれど」
「そ、その託宣で出された詔勅に、この何年、何度た、助けられたことか」
「それは重畳(ちょうじょう)。我が国の将卒だけでなく・・魏の兵も救っておりましたか」
「しゅ、酒色に耽(ふけ)っての浪費で、国庫を傾けたというも・・」
「はい、軍備に廻る費えを減らそうつもりも少しは。もっとも、姜維がその数十倍、北伐に遣うてくれましたが」
そういって劉禅は寂しく笑った。この時代、戦の鍵は兵糧である。かつて、魏の曹操は、兵糧の穀物確保のため酒の醸造を厳しく制限したという。まさか劉禅一人で数万人の兵糧を飲みつぶしもしまいが・・一時が万事、帝が率先して士気を挫いていた。
「りゅ、劉禅殿・・本当に酔っておられるのか。理路整然としたお言葉、柄杓の酒一滴も溢さぬお手許・・」
「はは、酒飲みは酒に卑しい、めったに溢さぬだけのこと。・・はい、父が黄巾の乱の折、乱れた世を何とかしたいと志を立てたことまで、間違っていたとは思いませぬ。が、漢こそ正義、漢朝の威光が蘇れば世は救えると思い込んだは時代の錯誤。・・ささ鄧艾殿」
劉禅は、卓に置かれた自分と鄧艾の爵に酒を満たした。やはり緩慢だが、溢さない。
「韜晦のための酒、の筈でした。それが酒の毒に取り付かれ・・お笑いください、酒の気が切れると五体が震え、話すも歩むもままなりませぬ」
「りゅ、劉禅殿・・」
「降る日はさすがに酒を断とうと致しましたが・・見えたのですよ」
「み、見えた?」
「床にも、卓の上にも・・それこそ無数の、蟻のように小さい兵が、殺し合って。・・私ももう、長くはないようじゃ」
劉禅の横顔に、凄絶(せいぜつ)な笑みが浮ぶ。 .
Posted by 渋柿 at 06:43 | Comments(0)