2011年04月09日

劉禅拝跪(4)

「と、時がございませぬ」

 今から洛陽の司馬昭の許に使者を発してその許可を待っていたのでは、鐘会や姜維に先手を取られてしまう。

「将、境を出れば詔も及ばず、ですか。が、これは周の礼、今は春秋戦国でもない」

 瞬時に、遠隔地の部下に指示を出せる訳はない。また、部下の報告が上司に届くまでにも日数がかかる。だが、現地の実情に甚だしくそぐわない場合に、命令を無視する権限が黙認されていたのは・・遥か昔の事である。

「あの姜維すら、我が詔勅には従いました」
「そそ、そうでしたな」

 鄧艾自身、その詔で何度も助けられた。殊に、と姜維に何度も追い詰められた時のことを思う。姜維が詔に従わず、更に進撃していたら、鄧艾の命がなかったことは勿論、長安は危うかったし、一時的にしろ魏の都洛陽も危機に曝された。

「それに・・」
 劉禅は酒精の香りの息を吐く。

「巧兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる、の喩(たと)えもございますぞ。白起(はっき)将軍の例も・・」

 戦国末期の秦の武将、白起。長平の戦いで趙兵四十万を屠りその後の秦の天下統一を決定的なものにするが、秦王に疎まれ死を命じられている。

 白起は、死の直前自分を狗肉・・狗に例えた。犬は中華の民にとって、狩猟に使う家畜であるとともに身近な食材であった。すばしこい兎を何とか捕らえた狩人は、無用となった犬を煮て食べてしまう・・敵が消滅すれば有能すぎる将は粛清されるという寓意、この言葉は漢の高祖と共に楚の項羽を倒した諸将も、粛清の過程で口にしている。

「鄧艾殿の蜀山中を突破された功、そのかみの白起に勝るとも劣らぬ。ゆえに・・ご用心なされよ」
「わ、儂も狗(いぬ)で?」

「蜀という巧兎が滅びた以上、鐘会将軍も鄧艾将軍も、役目の了(おわ)った狗に過ぎぬ。と、国を滅ぼした暗君が申せば、天に唾することになりますかな」

「りゅ、劉禅どの、あ、あなたは・・」
 
 鄧艾に、衝撃が走った。暗愚などではない。それどころか、自分を超えた視野の広さを持っている。

「信じて頂けますかな。私は決して、鍾会将軍を利用して魏への反抗をさせようとて、姜維に投降を命じたのではない」
 劉禅は今度は手酌で酒を満たし、呷った。

「死なせたくなかった。姜維も万余の諸卒も。出来れば魏に・・というより司馬昭殿に仕えさせ、あの者の才を正しく用いさせたかった」
「た、正しく用い?」

「すでに天下の民の心は漢を離れ去っている。いくら漢朝復興と唱えて足掻いたところで、時代の歯車も離れた民心も戻りはせぬ」
 
 頭を殴られたような衝撃であった。

「諸葛瞻(しょかつせん)に、降伏を勧められましたな、瑯邪王にも封じると」
 
 劉禅は、静かに鄧艾を見た。

「ろ、瑯邪は諸葛氏の本貫ゆえ、この条件なら或いは・・と。じゃが、て、手ひどく拒まれました」

 成都を防衛するための最後の防衛線にあった、諸葛瞻。彼は、蜀の先帝劉備を支えた蜀建国の立役者、諸葛孔明の嫡子。その妻は劉禅の娘であった。父と共に死んだ長子諸葛尚(しょう)は、孔明の嫡孫にして劉禅にも孫に当たる。父子とも最期まで、鄧艾の進撃を悩ませて散った。

「感謝しております。したが、勝手に王を封じようとしたこと、鍾会殿も軍監殿も・・」
「無論、し、知っておりましょう」
 
 その上、今度は劉禅を扶風王に、である。劉禅の危惧は、判る。

 鐘会と姜維の策謀を、破れるか。また、司馬昭が、鄧艾の独断をやむなしと許容するか。鄧艾にとっても、これは賭けであった。
 
 畏れ入ったお方じゃ、と、劉禅は爵を含んだ。

「・・孔明と魏の司徒王朗殿とのまことしやかな作り話、ご存知かな」

 爵を置く。王朗は、孔明ほど華やかな存在ではない。

「はい。世にる、流布しておりますな。が、その作り話ではこ、孔明殿の漢こそ正義というに激して、王朗殿は悶死されたと」

「王朗殿は漢の世の末、若くして会稽の太守となり、で孫策(呉初代皇帝孫権の兄)に捕らえられるも降らず、曹操(そうそう)殿に仕えて重職を歴任されたそうな。ご面識はおありかな?」

「お、お逢いしたは一度だけですが。文帝陛下(曹操の嫡子曹丕(そうひ))に司空に任じられましたなあ。司徒となったのは晩年、め、明帝陛下(曹丕の嫡子曹叡)の御世の事。司馬昭殿のご嫡子はその孫娘の所生で」

「王朗司徒は、諸葛孔明が初めて魏に攻め込んだ戦いの折、曹真大将軍に従って従軍して孔明に面罵(めんば)され、衝撃のあまり悶死(もんし)した・・ですか。世人は中々に面白い話を作る」

「ね、根も葉もない。王朗殿は洛陽の自邸で、安らかに逝かれた」
 
 壮年の頃は知らず、六十路を過ぎて王朗が戦場に赴いたことはない。ましてや魏蜀の最前線に出たなど、ありえない話である。

「いや、なかなかに面白い」



Posted by 渋柿 at 12:05 | Comments(0)
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