2010年01月04日

「続伏見桃片伊万里」10

 乳離れしていて、本妻の手元に引き取られてからの
「事故」
 だったら、播磨屋で通夜も葬儀もそれなりに営まれただろう。
 この仕舞屋は所詮妾宅、仮通夜とも名ばかり日中に営まれ、寂しかった。
 ほとんど近所のものだけ、会葬の薄さは、推して知るべし。
 実の父親の播磨屋仙右衛門が、通夜の席にあったのは、半刻ばかりだった。
 圭吾も、暇な身というわけではない。
 肥前の郷里を出て、最初に入門したのは大阪・書過町の蘭学塾。だがそこは、時代の風雲と共に、医学塾というより洋学塾の様相を呈し始めた。
 師自身が自分の手元からはなれ、京の然るべき医者に就いて医道に専念することを勧めた。
 そして、師の紹介をもって入門した高名の医者・京の南禅寺草川町・物故したばかりの新宮涼庭実弟の学塾。
 だがここで学習にそう時間を割けるわけではなかった。
 履歴と実力を買われ、今や師の代診・・武術の道場でいえば師範代といった格で診療にもあたっている身である。
 もはや夕刻ではない。
 仏の死水をとった医者とはいえ、母子二人の所帯を思えば、長居は無用というのが常識だろう。
 しかし、この通夜はあまりに寂しすぎる。
「正吉、松の内までご本宅におって、一昨日からこっちへ寄越してもろとりました。明日は、お筆も播磨屋さんの菩提寺の妙蓮寺に鎮めて頂けます。日蔭もんの子ぅが、菩提寺にて・・お店はんのお許しがなかったらできることではあらしまへん」
「お光さん」
 圭吾はためらいつついった。
 赤子の直接の死因は本妻の不注意である。
 おそらく、その真相を産みの母・お光は見抜いている。
 なぜ、それでも本妻を庇うのか。
 日蔭の身と口にすることいい、余りの自虐であった。
「お筆ちゃんの息が詰まっちまったのは、あれは―」
 思わずいった。
 医者にあるまじきこと、だがいわずにはいられなかった。
 お光は、目を伏せた。
 息を調えているように見えた。
「判っています」
 辛い答えであった。
「でも、それは口にしてはなりまへん。お店さまには、恩がおます。正吉を吾子として引き取ってくだはりました。播磨屋の旦那さまはご養子、女中のうちがあの子を身ごもったとき、手切れの金で播磨屋と縁を切られてもしかたありまへんどした。それを、この家をもたせてくださり、また続いてお筆が産まれても」
「お光さん」



Posted by 渋柿 at 07:08 | Comments(0)
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