2009年10月31日

「中行説の桑」116

 このとき司馬遷は四十七歳だったという。
 不幸な偶然も重なっていた。李陵が匈奴に降った直後、間諜が
「李という漢の降将が匈奴軍に兵法を教えている」
 という報告をもたらした。その李という将軍とは李陵のことではなく、ずっと以前に匈奴に降伏した李緒という将であった。だが武帝は李陵が漢を裏切ったと誤解し、長安にあったその妻子一族を皆殺しにしている。
 誤解はすぐに解けたが、後の祭りであった。
(書いてやる)
 司馬遷は獄中で誓った。
(繁栄の極にあるという陛下の治世に本当は何があったか、全て全て、まことのことを書き記すまで、死ぬわけにはいかぬ)
 生き延びるために・・司馬遷は究極の選択をした。
 武帝の許、儒学が国教化された時代である。制度としては死刑を免れる唯一の方法であったが、男根を切断され人の賤しむ宦官となるという選択をする士大夫は皆無だった。
 あえて、司馬遷はその宦官となって生き延びた。父祖悲願の歴史書を完成させるためである。恥辱を耐え忍び、司馬遷は歴史書の執筆に全力を注いだ。
父の命もあった。
 十代の半ばから、司馬遷は漢の殆ど全土を廻り、口碑伝承を採取した。書物だけでなくフィールドワークも重ねている。

 いうまででもないことだが、本稿において何度も引用した史書とは、司馬遷が完成させた「史記」のことである。

「史記」は現在の社会科学としての歴史学の批判にも耐えうる、偉大な歴史書として歴史学の上に屹立する金字塔であることは、万人がみとめるところであろう。
ただ・・司馬遷も長城の外・・漠北、西域には足を踏み入れていない。漢の側の、偏った記録のみに依拠したのはやむをぬことだった。
 史記の匈奴列伝の中で、中行説について司馬遷は数頁を割いて詳述している。前述したように、中行説の側の情報が皆無という状態での記述である。いわば彼を「漢の禍」と嫌悪した側の記録だけしか史料はなかったのだ。種々の事実誤認、錯誤があるのはやむをえない。



Posted by 渋柿 at 06:56 | Comments(0)
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