2009年10月29日

「中行説の桑」111

 中行証は、奴僕の捧げる冷たい飲み物を押し頂いた。鮮やかな緑色である。
「これは、桑湯・・」
 懐かしい味がした。
「はい、桑の葉でございますよ。新緑の頃桑の葉を摘みまして、陰干しにいたします。それを煎じまして井戸水で冷やしたもので」
「何やら、いかにも太史令殿のお宅にふさわしい」
 かすかな渋みも、かえってさわやかさを感じさせる。
「ありがとうございます」
 一礼して下がろうとする奴僕を、証は呼び止めた。
「あの」
「はい?」
「宜しければ・・竹簡作り、お手伝いさせてくださらぬか」
「お客様がですか?」
「黙って司馬遷殿のお帰りを待つのも無聊、お手伝いさせてくださいませ」
 証は軽く頭を下げた。
 奴僕は暫く考えていたが、
「では、申し訳なきことですが、寄る年波、ありがたくお願いいたします」
 とこれも頭を下る。
 司馬遷の屋敷の背後は、竹林であった。
 庭の大きな桑の木陰で切り出した太い孟宗竹の長さを整える。
「先ほどの湯、この桑の葉で作りました。旦那様のお祖父様が、お子・・ご先代がお生まれになった時に植えられたそうで」
 奴僕は、木を見上げていった。盛夏、葉は濃く茂り、木陰は涼しい。
「司馬談殿がお生れの頃とは・・七、八十年も昔ですな」
「はい」
「このお屋敷には、使用人はあなたしか居られぬのか」
「はい。大旦那様がご存命の頃は三人ほど降りましたが・・お嬢様が嫁がれるときに婢が付いてまいりましてからは儂一人でお仕えしております」
「あなたは、いつからこちらへ」
「旦那様がお生まれになる前から、大旦那様にお仕えておりました。・・さあ、これを火に炙るのでございます」
 そういって老奴僕は竹簡作り専用らしい石組みの竃に火を入れた。
「炙る?」
「はい、竹の油を抜いて、筆の墨が載りやすいようにいたすのです。木簡ならこのような手間は要りませぬが、聊か高価で。旦那様はとてもたくさん、お入用になりますし」
 竹簡を炙るのにはコツが要るらしく、奴僕が自分で竹を火に翳し、証の手を借りなかった。竹の鮮やかな緑が、次々とくすんだ黄色に変じていく。
(黄河の色だ)
 と、中行証は思った。



Posted by 渋柿 at 12:56 | Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。