2009年10月27日
「中行説の桑」107
「何といってもご生母は漢の公主、このまま簒奪者、傍系の叔父に殺されるよりも・・」 張騫は更に勧める。
「私は、断じて裏切り者にはならぬ」於単は、即座に拒絶した。
「左様でしょうなあ。匈奴の太子であった誇りが許しませぬか・・」
「本来なら・・見張りの兵共々あなた方を捕らえて伊稚斜殿に突き出さねばならぬところじゃ。じゃが苦節 十有年の辛苦を思えばそれも気の毒、さあ、さっさとお帰り頂こう」
張騫にとって、機密を知りぬいた匈奴の太子を連れ帰ることは、大いなる利益となるだろう。だがそれは 於単はもとより中行証にとっても到底受け入れられるものではなかった。
張騫は黙って頭を下げた。そして、目で甘父を促した。
(この者達、立ち去るか)だが、甘父はかすかに頷いて帯びていた剣を抜き払った。
「無駄じゃ。刀で脅しても私も中行証も裏切り者にはならん」
「いいえ」甘父は剣の柄を返し、両手を添えて中行証に握らせた。
「な、何を・・」
「私を、斬ってください」
「あなたを、斬る?」
「私も斬って頂こう」 張騫も、腰の剣を外して床に置いた。「於単殿をお連れするのでなければ、外の兵達も我等を見逃してはくれませぬ。事破れた。一思いにお願いいたします」
「脅されますのか」於単が、声を荒げた。
「いいえ。少なくとも中行証殿には、身共を斬る理由がある」甘父がいった。
「理由?」
「三〇年前、証殿の父、中行説殿を手にかけたのは・・この私です」
証の頭に、雷が落ちたような衝撃が走った。
「あなた・・お前が・・」
「私はその時まだ十五でした。市で青珠や白珠を売っておりました。中行説殿は私が若いというよりまだ幼かったので全く警戒はしておられなかった」
「その父を、お前は」
「はい、憎むべき漢の裏切り者と上の者がいうのを疑いもせず・・刃で抉りました。が、中行説殿は反撃もせず叫び声も挙げず、ただ、逃げろと」
「お前は、その通り逃げた」
「はい、ただ動転しておりました。無論のこと、暗殺に成功しようと失敗しようと生きては帰れぬと覚悟しておった筈でしたが・・その時は夢中で・・すぐには走るな、市から姿が見えなくなってから、全力で逃げろ、とのお言葉にしたがいました」
中行証にも、幼い日、父が翡翠を買いたいと交渉していた商人の面影が蘇った。
「何とか無事に仲間と合流して漢に戻りました。そのまま十年以上匈奴の地は踏みませんでしたが・・密命も帯びまして張騫様の供をし、捕らえられてまた十余年ここに暮らしました。知ったのです。中行説殿が本当はどのようなお方だったか」
「父は、人にも自分にも誠実なだけだった」
「はい、裏切り者になろうとしてなられたわけでもなかった。ただ隣人に誠実であろうとなされただけで」
「それで今、私に仇を討てというのか」中行証は、握らされた刃を見た。
「せめてものお詫びで・・」甘父が、床に胡座し目を閉じた。
「私は、断じて裏切り者にはならぬ」於単は、即座に拒絶した。
「左様でしょうなあ。匈奴の太子であった誇りが許しませぬか・・」
「本来なら・・見張りの兵共々あなた方を捕らえて伊稚斜殿に突き出さねばならぬところじゃ。じゃが苦節 十有年の辛苦を思えばそれも気の毒、さあ、さっさとお帰り頂こう」
張騫にとって、機密を知りぬいた匈奴の太子を連れ帰ることは、大いなる利益となるだろう。だがそれは 於単はもとより中行証にとっても到底受け入れられるものではなかった。
張騫は黙って頭を下げた。そして、目で甘父を促した。
(この者達、立ち去るか)だが、甘父はかすかに頷いて帯びていた剣を抜き払った。
「無駄じゃ。刀で脅しても私も中行証も裏切り者にはならん」
「いいえ」甘父は剣の柄を返し、両手を添えて中行証に握らせた。
「な、何を・・」
「私を、斬ってください」
「あなたを、斬る?」
「私も斬って頂こう」 張騫も、腰の剣を外して床に置いた。「於単殿をお連れするのでなければ、外の兵達も我等を見逃してはくれませぬ。事破れた。一思いにお願いいたします」
「脅されますのか」於単が、声を荒げた。
「いいえ。少なくとも中行証殿には、身共を斬る理由がある」甘父がいった。
「理由?」
「三〇年前、証殿の父、中行説殿を手にかけたのは・・この私です」
証の頭に、雷が落ちたような衝撃が走った。
「あなた・・お前が・・」
「私はその時まだ十五でした。市で青珠や白珠を売っておりました。中行説殿は私が若いというよりまだ幼かったので全く警戒はしておられなかった」
「その父を、お前は」
「はい、憎むべき漢の裏切り者と上の者がいうのを疑いもせず・・刃で抉りました。が、中行説殿は反撃もせず叫び声も挙げず、ただ、逃げろと」
「お前は、その通り逃げた」
「はい、ただ動転しておりました。無論のこと、暗殺に成功しようと失敗しようと生きては帰れぬと覚悟しておった筈でしたが・・その時は夢中で・・すぐには走るな、市から姿が見えなくなってから、全力で逃げろ、とのお言葉にしたがいました」
中行証にも、幼い日、父が翡翠を買いたいと交渉していた商人の面影が蘇った。
「何とか無事に仲間と合流して漢に戻りました。そのまま十年以上匈奴の地は踏みませんでしたが・・密命も帯びまして張騫様の供をし、捕らえられてまた十余年ここに暮らしました。知ったのです。中行説殿が本当はどのようなお方だったか」
「父は、人にも自分にも誠実なだけだった」
「はい、裏切り者になろうとしてなられたわけでもなかった。ただ隣人に誠実であろうとなされただけで」
「それで今、私に仇を討てというのか」中行証は、握らされた刃を見た。
「せめてものお詫びで・・」甘父が、床に胡座し目を閉じた。
Posted by 渋柿 at 19:24 | Comments(2)
この記事へのコメント
運命の潮流に弄ばれた者たちですね。
でも中行説は誰一人怨むことなく、運命を受け入れて最後まで生き抜きました。
そんな風に生きられたら良いでしょうね。
でも中行説は誰一人怨むことなく、運命を受け入れて最後まで生き抜きました。
そんな風に生きられたら良いでしょうね。
Posted by 昏君
at 2009年10月27日 20:00

(自分が創作した)この中行説のように生きられたら・・と思います。
「必我行也、為漢患者。(われ行かば必ず、漢の患ともなるなり)」を、自分を知るが故の困惑の言葉とする学術的解釈、出始めております。
「必我行也、為漢患者。(われ行かば必ず、漢の患ともなるなり)」を、自分を知るが故の困惑の言葉とする学術的解釈、出始めております。
Posted by 渋柿
at 2009年10月27日 20:07
