2009年10月23日

「中行説の桑」97

「父さん・・」
 食べ物の売り場を少し通り過ぎたころ、証が甘えるように背中に擦り寄ってきた。
「やっぱり、干葡萄がほしいのか?」
「うん、それに棗も」
「よしよし」
 中行説は腰の縫い針を詰めた皮袋をはずした。
 針は羊の毛を織る遊牧の民だけでなく、交易の民にも必需品である。嵩張らず携帯にも便利なので、説はいつも財布代わりに腰に下げている。
 中行説はまず日用品を商っている男から、木の鉢を買った。そしてそれに針を一本載せて証に手渡した。
「ほれ、落とすなよ」
「はい」
「買ったら、すぐ父さんの所に戻るんだぞ」
 証は大事そうに鉢を抱えて、少し離れた干葡萄売りの所へ戻った。
「おや、珍しい・・」
 この市で、西の地で採れるという玉が売られているのを見たのは、これがはじめてではなかった。だが著しく高価なので手が出る客はめったにおらず、ほとんど商売にならない。
「ここで玉を見たのは、三度目か」
 市の一番はずれの一角に敷かれたフェルトの上に、玉の髪飾りや腕輪が並べられていた。それだけでなく、翡翠や真珠まで置かれている。
(かわいそうに、はるばる運んできても、さて、売れるだろうか)
 そう思いながら近づいたのは、娟に何か買ってやろうかとも思ったからである。
 また、客が寄り付かぬまま所在なく店番をしていたのが、まだ少年といってよい若さだったからでもあった。
(燕の甥達も、生きていればこれくらいの年頃・・)の筈であった。
「青珠(翡翠)と白珠(真珠)の耳飾りを見せてくれ」
 中行説は、男に声を掛けた。真珠は、淡水産のようである。
「はい、どうぞお手にとってご覧ください。ほれ、これなど海の水のように曇りのない翡翠で」
「海?」
 ふと、不審に思った。元は漢人とはいえ燕に生まれ長安で宦官をしていた自分でも文字で知るのみ、海など見たことはない。
「お前さん、海を見たことがあるのかね」
「あ、いえ・・北海(バイカル湖)の水は、こんな風にきれいな翠の色だときいておりますだけで」
「ふうむ。祁連山の南にも、雪解け水の海があるそうじゃがなあ」
「はあ、そのようで・・」
「湧きいずる水は清らかで、一面、剣の面のように輝くと聞いておる」
「はあ・・」
(こ奴、西から来たのではないのか)
 西域に産する宝石を購いながら、その地方に不案内な様子に、中行説はかすかな不審を抱いた。
 だが、男の勧めた翡翠の耳飾りは間違いなく見事なものだった。



Posted by 渋柿 at 20:03 | Comments(2)
この記事へのコメント
運命の時が近付いていますね(;-_-) =3 フゥ
Posted by 昏君昏君 at 2009年10月23日 21:25
実はこのあとの場面、高校生の時読んだ「人間の証明」の、実の母に刺されながら、母を逃がしての場面をパクってます。
Posted by 渋柿渋柿 at 2009年10月23日 21:55
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