2009年10月23日
「中行説の桑」96
「その芋虫・・蚕を養うため、長城の彼方では桑を植えております」
「この桑は於単の母上が種を持ってこられたと聞いておるが」
「はい。漢では絹を長城の外で作らせぬため、蚕と桑の持ち出しを厳しく禁じております。
亡き和蕃公主様は密かに蚕の卵と桑の種を持参されたので。が、蚕は旅の途中で卵から孵り、皆死んでしまいました」
「そうか・・於単、証食べるのはそのくらいにいたせ」
伊稚斜は二少年を制止し、兵のほうを振り返った。
「桑の実をすべて摘み、干せ。完全に乾いたら単于に献上する。干葡萄のように野戦の地の兵糧にもなりそうじゃ」
「はっ」
二人の兵は叩頭し、羊の皮を敷いて桑の実を集め始める。
「中行説、先ほどの詩を講じてくれ。それに出来れば鄭の七子が趙武をもてなした時に賦した他の詩も」
「七つ全部でございますか?」
「おお。趙武がそれぞれをどのように評したか、七子はその後どうなったかなど、な」
「畏まりました」
(この子は、器だ・・)
年少ということも無論ある。
それにしても伊稚斜に較べ、桑の実に夢中になるだけの於単の幼さは、中行説にとっては歯がゆかった。
「於単様、先ほど伊稚斜様が読まれた通りでございます。この詩を読んでご覧なされ」
中行説は先ほど地面に書いた隰桑の詩を指差した。
於単の声は、伊稚斜よりもさらにたどたどしい。
(単于は・・)
どちらを自分の跡継ぎとなさるだろう、とそのとき初めて中行説は思った。
これまでは無意識に漢の嫡々相続が頭に刷り込まれていて、単于の長子である於単が軍臣単于の太子だと無条件に思い込んでいた。だが、遊牧の民には、長子から成人すると家畜をつれて独立していき、最後に残った末子が跡継ぎになる伝統がある。
(軍臣様の祖父は、末弟を跡継にしようとした実父とその弟を我が手で殺して、単于の位を奪い取られた)
前の単于の末子、しかも生母は匈奴后族の伊稚斜にも、太子となる資格は充分にある。(単于はまだ三十前・・跡目争いが起こるにしても何十年も先のことであろうが・・)
鄭の子産について講じながら、説の胸に微かな不吉の思いが去来した。
ほんの数年前、老上単于の頃までは王庭の穹廬とそれを囲む柵を出れば、一面の大平原であった。
それが今では、王庭の門の前に市が広がるようになっている。
王子達を単于の穹廬に送り届けてから、中行説は証を伴って市を覗いた。
毛皮や皮革、フェルトや毛織物、干肉や酪、馬乳酒などを商っているのは、遊牧の民であろう。
日用の木器や瓢箪、漢の絹や麻、祁連山で採れた紅、さらにその西から来た干葡萄、干棗を並べているのは、もはや家畜は飼わず交易に専念している者らしい。
年々、店を出すものもそれを買いに来る客も、増え続けている。
「この桑は於単の母上が種を持ってこられたと聞いておるが」
「はい。漢では絹を長城の外で作らせぬため、蚕と桑の持ち出しを厳しく禁じております。
亡き和蕃公主様は密かに蚕の卵と桑の種を持参されたので。が、蚕は旅の途中で卵から孵り、皆死んでしまいました」
「そうか・・於単、証食べるのはそのくらいにいたせ」
伊稚斜は二少年を制止し、兵のほうを振り返った。
「桑の実をすべて摘み、干せ。完全に乾いたら単于に献上する。干葡萄のように野戦の地の兵糧にもなりそうじゃ」
「はっ」
二人の兵は叩頭し、羊の皮を敷いて桑の実を集め始める。
「中行説、先ほどの詩を講じてくれ。それに出来れば鄭の七子が趙武をもてなした時に賦した他の詩も」
「七つ全部でございますか?」
「おお。趙武がそれぞれをどのように評したか、七子はその後どうなったかなど、な」
「畏まりました」
(この子は、器だ・・)
年少ということも無論ある。
それにしても伊稚斜に較べ、桑の実に夢中になるだけの於単の幼さは、中行説にとっては歯がゆかった。
「於単様、先ほど伊稚斜様が読まれた通りでございます。この詩を読んでご覧なされ」
中行説は先ほど地面に書いた隰桑の詩を指差した。
於単の声は、伊稚斜よりもさらにたどたどしい。
(単于は・・)
どちらを自分の跡継ぎとなさるだろう、とそのとき初めて中行説は思った。
これまでは無意識に漢の嫡々相続が頭に刷り込まれていて、単于の長子である於単が軍臣単于の太子だと無条件に思い込んでいた。だが、遊牧の民には、長子から成人すると家畜をつれて独立していき、最後に残った末子が跡継ぎになる伝統がある。
(軍臣様の祖父は、末弟を跡継にしようとした実父とその弟を我が手で殺して、単于の位を奪い取られた)
前の単于の末子、しかも生母は匈奴后族の伊稚斜にも、太子となる資格は充分にある。(単于はまだ三十前・・跡目争いが起こるにしても何十年も先のことであろうが・・)
鄭の子産について講じながら、説の胸に微かな不吉の思いが去来した。
ほんの数年前、老上単于の頃までは王庭の穹廬とそれを囲む柵を出れば、一面の大平原であった。
それが今では、王庭の門の前に市が広がるようになっている。
王子達を単于の穹廬に送り届けてから、中行説は証を伴って市を覗いた。
毛皮や皮革、フェルトや毛織物、干肉や酪、馬乳酒などを商っているのは、遊牧の民であろう。
日用の木器や瓢箪、漢の絹や麻、祁連山で採れた紅、さらにその西から来た干葡萄、干棗を並べているのは、もはや家畜は飼わず交易に専念している者らしい。
年々、店を出すものもそれを買いに来る客も、増え続けている。
Posted by 渋柿 at 15:49 | Comments(0)