2009年10月20日

「中行説の桑」90

 漢人の顔色がさっと変わった。
単于との会見の前に佩刀を取り上げていなかったら、中行説は斬られていたかもしれなかった。
 軍臣が陪席の貴族たちに目配せした。
貴族達は説と漢人たちの間に割って入った。
「ささ、議論はこれ位になさって」
「和やかに、飲みなおしましょうぞ」
中行説はストンと尻餅を着いた。
「よくやった」
軍臣が耳元で囁く。
「珍妙なことも申しておったが、な。これで漢人は、我等がすぐにも穀物と農民を奪おうなどとは夢にも思うまいよ」
 半ば朦朧としていた説は、軍臣の「穀物」という言葉だけに反応した。
乱高下していた情動は一気に悲しみに満たされる。
(穀物・・悪鬼の爪の取り付いた穀物が、私から大事なものをすべて奪った。姚娥様も、父も母も、兄妹甥姪まで・・)
ふらふらと立ち上がり、漢人たちの座に近付いた。漢人たちも、ぎょっとしたように立ち上がった。
「お願いれす・・」
回らぬろれつであった。
すすり泣いている。
「最後に一つあけお願いしあす」
さっきまで威張りかえっていた酔っ払いが、怒り上戸から泣き上戸に変じて、漢人たちも面食らう。
「こえから送ってくあさる絹や穀物は、充分あ量で・・品質あ確実あ物にしてくあさい」
 少なくとも、去年漢から送られた穀物の品質が確かなものなら、姚娥は死ぬことはなかった。
軍臣が血相変えて説の手を引いた。こちらから穀物のことに触れてどうする、ぶち壊しではないか。
「しっかり貢物を納めなはれ、さおなくば収穫の折にはわが国は騎馬を繰り出して寇しまふるぞ・・」
篝火の外の暗闇に引きずり出された。漢人達は不快そうに横を向いている。嫌がらせの上塗りと思ったらしい。中行説はそのまま倒れこみ、鼾を書き出す。
「まったくもう、わけのわからぬ奴じゃ」
軍臣は、その寝顔を見つめて呟いた。
「お前を裏切り者にした。単于でも漢の皇帝でもなく・・怨むなら儂を怨め」
(出逢いの日のお前の酔言を、利用したのは・・儂じゃ)
 史書はこの論争の末尾、中行説の言葉としてこう記す。
「願うに漢が匈奴に輸る繪絮米をその量みちて必ず善美ならしめんのみ。・・備わらずして苦悪ならば、秋熟を候ちて騎をもって、汝の稼穡を馳蹂せんのみ」




Posted by 渋柿 at 12:33 | Comments(0)
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