2009年10月19日

「中行説の桑」87

「こちらのお国では、子が妻帯しても親と同じ天幕で起居なさるそうですな。これはちと如何なものでござろうか」
 そういいかけて小さく噫を漏らしたのは、馬乳酒の故であろう。
「如何かと仰っても・・」
「いや、天幕を作る布にご不自由ならこれは良しといたしましょう。じゃが父が死ぬと継母を妻とし、兄弟が死ぬとその妻を自分の妻にする、この風はいただけませぬ。さらに言わせていただければ皆様の着衣は獣の皮、衣冠束帯の礼装はなく、私語しきりなど朝廷における礼式もないに等しいようじゃ。そも、この国に人倫がありましょうや」
 酔いの回りは急速のようである。見る見る顔面に朱を刷き、言葉が激烈になっていった。
(ここだ!)
 中行説は心中ほくそ笑んだ。ここで相手を論破し、匈奴の現状について事実と異なる認識を確信させねばならぬ。
「はい、わが国の習俗では人は家畜の肉を食いその乳汁を飲みその皮を着まする。家畜と匈奴は一身同体。これに草を食ませ水を飲ませるために草原を漂泊して暮らしまする」
 あくまでも重々しく、いう。
(そう、私も娟に指摘されるまで、匈奴とはそのようなものと誤解していた。馬鹿な。大事な家畜だ。殺してその肉や皮だけで衣食を賄っていれば、一年たたず飢え死にするだろうて)
 そう思いながら言葉を続けた。
 ふらり、頭が妙に軽い。説にも酔いが忍び寄っている。
「季節に応じて漂う暮らし、城など構えませんしな。戦でも起これば騎射をもっぱらとし、平時に無事を楽しみまする。かような習俗ゆえ、法制は簡略、行うに易い。君臣の関係も漢のような馬鹿馬鹿しく仰々しい形式にとらわれず、政(まつりごと)もわが身一つを動かすようなものじゃ」
 困ったことに喋っているうち、自分がうそをいっているのかまことをいっているのか判然としなくなってきた。
(少なくとも、文武百官を揃えた漢の宮廷より匈奴の単于の庭の方が優れては・・いような)
「中行説殿、私にも一献いただけますかな」 もう一人別の漢人が、進み出てきた。
(しまった!)
 説は狼狽した。
 相手はあと三人はいる。こちらは一人。銘々と「引満挙白」の応酬をやっていたら到底身が持たない。
(俺は馬鹿だ)
 だが、最早どうしようもない。漢人の後を受け、説はもう自暴自棄で大杯に注がれた酒を干した。
「さて、父や兄弟が死ぬと、その妻を娶って自分の妻にするのは、やはり弁解の余地のない不倫の風習でございましょう」
 漢人は先ほどの男の論点を蒸し返した。
「そ・・それは家系が途絶えるのを恐れるゆえで・・決して人倫には悖らず・・」
「ほう、義母兄嫁を娶るが人倫に悖らぬと」
(考えがまとまらぬ)
 焦った。



Posted by 渋柿 at 13:34 | Comments(0)
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