2009年10月15日
「中行説の桑」78
あの狩の日、姚娥が於単と共に落馬して以後、記憶も失うほど衝撃を受けていた。「これから」のことを一切放念していた。「裏切り」を強要される破目に追い込まれずとも、そう長く生きていたとも思われぬ。
「引き戻すことは叶うまい、ならば何も知らぬうち我が手で、と」
「何も・・知らぬうち・・?」
「故国の親兄弟を守ったと信じたまま、姚娥様のあとを追わせてやろうと。それが自分の償いだ、とも」
「償い・・」
「中行説殿、あなたはすでに漢の裏切り者になってしまっているのです。少なくとも長城の彼方では」女は、辛そうにいった。
「すでに裏切り者・・そういう方もいるかもしれませんな。漢と匈奴が不倶戴天の仇敵と思えば、降嫁した公主様に扈従するということは」
「はい、あなたは不倶戴天とも、仇敵同士とも思われなかった。漢の皇帝の命で嫁いだ公主に、同じく勅命で仕えてこられた。しかも誠心誠意。主の幸せを念じれば、匈奴の民と和して溶け込むのは当然のこと」
「それを、裏切りというのですね、漢では」
この瞬間、確信した。(この女はやはり蘭牙様と同じ、匈奴の諜報活動に関わる間諜・・)かなり深いところまでの情報を掴んでいるのだろう。
「いえ、それも多少はありましょうが・・私達があなたを利用したのです。匈奴の間諜の組を守るために」
血のように赤い西の空であった。
「あっ、動かずに」女は、短剣をかざし、中行説のすぐ傍らを突き刺した。
毒蛇のヤマカガシ。刃に頭を貫かれた毒蛇は、それでもしばらく蠢いていた。 女は刃を抜いて、草で血を拭い鞘に納めた。 その死骸から目を逸らし、中行説は横たわったまま西の空を見た。夕陽が、不吉なほど巨大な姿で没している。
目を閉じ、息を整え、女は言葉を続けた。
「漢の間謀の目を私達から逸らすために・・朝廷の官衙や軍、諸王諸侯の機密が匈奴にもれているのは、匈奴の謀人の暗躍によるのではなく、公主降嫁に扈従した漢人の口から、と思わせました」ヤマカガシの方を見た。もう動かない。「一度、匈奴から漢に送る牘を一尺ほど大きくしたのを覚えておられましょう?」
「こちらに着いて暫くしたころでしたな」
「その直前、単于の名で・・漢の宦官中行説の助言により、と断った布告が・・匈奴が己の衣食を誇りを持って守れば、漢の一郡の人口で充分拮抗できると。当然、漢の宮廷はこの二つを結び付けて考えます。どちらも匈奴に寝返ったあなたが、深く関わったことと思い込みました。はい、私達がそう誤解するよう仕向けたのです」
のろのろと説は手を伸ばし、蛇の死骸を摘み上げた。目の前にかざす。裂けた頭から血が出ていた。生臭い。
「うっ」吐き気が突き上げ、蛇を放った。
女に背を向け、嘔吐しようとした。だが、先ほど飲んだ水と、恐ろしく苦い胃液の他は出てこなかった。
「引き戻すことは叶うまい、ならば何も知らぬうち我が手で、と」
「何も・・知らぬうち・・?」
「故国の親兄弟を守ったと信じたまま、姚娥様のあとを追わせてやろうと。それが自分の償いだ、とも」
「償い・・」
「中行説殿、あなたはすでに漢の裏切り者になってしまっているのです。少なくとも長城の彼方では」女は、辛そうにいった。
「すでに裏切り者・・そういう方もいるかもしれませんな。漢と匈奴が不倶戴天の仇敵と思えば、降嫁した公主様に扈従するということは」
「はい、あなたは不倶戴天とも、仇敵同士とも思われなかった。漢の皇帝の命で嫁いだ公主に、同じく勅命で仕えてこられた。しかも誠心誠意。主の幸せを念じれば、匈奴の民と和して溶け込むのは当然のこと」
「それを、裏切りというのですね、漢では」
この瞬間、確信した。(この女はやはり蘭牙様と同じ、匈奴の諜報活動に関わる間諜・・)かなり深いところまでの情報を掴んでいるのだろう。
「いえ、それも多少はありましょうが・・私達があなたを利用したのです。匈奴の間諜の組を守るために」
血のように赤い西の空であった。
「あっ、動かずに」女は、短剣をかざし、中行説のすぐ傍らを突き刺した。
毒蛇のヤマカガシ。刃に頭を貫かれた毒蛇は、それでもしばらく蠢いていた。 女は刃を抜いて、草で血を拭い鞘に納めた。 その死骸から目を逸らし、中行説は横たわったまま西の空を見た。夕陽が、不吉なほど巨大な姿で没している。
目を閉じ、息を整え、女は言葉を続けた。
「漢の間謀の目を私達から逸らすために・・朝廷の官衙や軍、諸王諸侯の機密が匈奴にもれているのは、匈奴の謀人の暗躍によるのではなく、公主降嫁に扈従した漢人の口から、と思わせました」ヤマカガシの方を見た。もう動かない。「一度、匈奴から漢に送る牘を一尺ほど大きくしたのを覚えておられましょう?」
「こちらに着いて暫くしたころでしたな」
「その直前、単于の名で・・漢の宦官中行説の助言により、と断った布告が・・匈奴が己の衣食を誇りを持って守れば、漢の一郡の人口で充分拮抗できると。当然、漢の宮廷はこの二つを結び付けて考えます。どちらも匈奴に寝返ったあなたが、深く関わったことと思い込みました。はい、私達がそう誤解するよう仕向けたのです」
のろのろと説は手を伸ばし、蛇の死骸を摘み上げた。目の前にかざす。裂けた頭から血が出ていた。生臭い。
「うっ」吐き気が突き上げ、蛇を放った。
女に背を向け、嘔吐しようとした。だが、先ほど飲んだ水と、恐ろしく苦い胃液の他は出てこなかった。
Posted by 渋柿 at 13:18 | Comments(0)