2009年10月10日
「中行説の桑」62
さすがに、姚娥が王庭の穹廬から軍臣の許に移るのは一年後のこととされた。
「婚姻の資じゃ」まだ夜の訪いはないが、白昼三日にあげず姚娥の穹廬にやって来る軍臣は、駿馬十頭と専属の馬丁を贈った。
一月もすると、説や侍女たちも自然と座をはずすようになっていた。二人は語り合って飽きぬらしい微笑ましい好一対である。
「あの、公主様に馬・・でございますか」当惑する中行説に、
「あの姫様なら、馬にも乗られよう」と自信たっぷりの答えが返る。「まさか、漢に逃げ帰ろうなどとする女人ではない。自由に漠北を駆けられればよい」
説は、姚娥が馬に乗れることをこのときまで知らなかった。姚娥はこの贈り物を知ると、すぐ皮袴を穿ち厩へ急いだ。
「公主様!」
「私は燕で育ったのですよ」
そして控えている馬丁に向って、何事かを命じた。匈奴の言葉であった。馬丁は叩頭して、逸物の白馬に鞍を置いた。
「公主様・・」
「太子に習いました。追々、中行説も匈奴の言葉を覚えねばなりませんね」笑いながらそういうと、姚娥は白馬に跨り、馬側を蹴って駆け出した。
「あっ」中行説は慌てて横に繋がれていた葦毛の裸馬の綱を解き、姚娥の後を追った。
(無理もないか)
和蕃公主に冊立されて長安の長楽宮に入ってから一年近く、籠の鳥のような暮らしであった。姚娥に流れる遊牧の民の血が今こそ解き放たれたのである。
初夏であった。長城の内のような鬱蒼とした森の新緑は望むべくもないが、地の果てまで伸びゆく草に満ちている。姚娥の馬術は巧みであり、中行説は裸馬にしがみ付くようにして追いかける。水音がした。前方に、草とは違う濃い緑の一群が出現した。
(楡だ) 姚娥の馬は、周囲より一段低くなった楡の疎林の辺りに飛び込んでいく。(川・・)
おそらく一年のうちのほとんどは、川床を見せて乾いているのだろう。今の季節、天山山脈の雪解け水が伏流して平地に湧き、川の流れを作る。 楡の木の近くで姚娥は手綱を引き、馬を下りた。中行説も続けて水辺へ降り、姚娥と自分の馬を楡の木に繋いだ。
「中行説」
「はい」
「ここに桑の種を播いてみましょう」
「えっ」
「太子が仰った、楡の育つところなら、桑も育つかもしれない、と」(蘭牙様と同じことを・・)
「婚姻の資じゃ」まだ夜の訪いはないが、白昼三日にあげず姚娥の穹廬にやって来る軍臣は、駿馬十頭と専属の馬丁を贈った。
一月もすると、説や侍女たちも自然と座をはずすようになっていた。二人は語り合って飽きぬらしい微笑ましい好一対である。
「あの、公主様に馬・・でございますか」当惑する中行説に、
「あの姫様なら、馬にも乗られよう」と自信たっぷりの答えが返る。「まさか、漢に逃げ帰ろうなどとする女人ではない。自由に漠北を駆けられればよい」
説は、姚娥が馬に乗れることをこのときまで知らなかった。姚娥はこの贈り物を知ると、すぐ皮袴を穿ち厩へ急いだ。
「公主様!」
「私は燕で育ったのですよ」
そして控えている馬丁に向って、何事かを命じた。匈奴の言葉であった。馬丁は叩頭して、逸物の白馬に鞍を置いた。
「公主様・・」
「太子に習いました。追々、中行説も匈奴の言葉を覚えねばなりませんね」笑いながらそういうと、姚娥は白馬に跨り、馬側を蹴って駆け出した。
「あっ」中行説は慌てて横に繋がれていた葦毛の裸馬の綱を解き、姚娥の後を追った。
(無理もないか)
和蕃公主に冊立されて長安の長楽宮に入ってから一年近く、籠の鳥のような暮らしであった。姚娥に流れる遊牧の民の血が今こそ解き放たれたのである。
初夏であった。長城の内のような鬱蒼とした森の新緑は望むべくもないが、地の果てまで伸びゆく草に満ちている。姚娥の馬術は巧みであり、中行説は裸馬にしがみ付くようにして追いかける。水音がした。前方に、草とは違う濃い緑の一群が出現した。
(楡だ) 姚娥の馬は、周囲より一段低くなった楡の疎林の辺りに飛び込んでいく。(川・・)
おそらく一年のうちのほとんどは、川床を見せて乾いているのだろう。今の季節、天山山脈の雪解け水が伏流して平地に湧き、川の流れを作る。 楡の木の近くで姚娥は手綱を引き、馬を下りた。中行説も続けて水辺へ降り、姚娥と自分の馬を楡の木に繋いだ。
「中行説」
「はい」
「ここに桑の種を播いてみましょう」
「えっ」
「太子が仰った、楡の育つところなら、桑も育つかもしれない、と」(蘭牙様と同じことを・・)
Posted by 渋柿 at 08:20 | Comments(0)