2009年10月09日

「中行説の桑」60

「後悔・・とはどういうことか」
「はい。公主様にとっては最初から覚悟の上のことでございましょうが・・単于は四十路近く、軍臣様始めお子を挙げられた妃嬪は六人、そのほかにも穹廬を賜っておる女人は五指にあまるらしゅうございます。中でも今は軍臣様より若い須卜氏の女人を殊のほかご寵愛だそうで・・」
説は、ほとんど鸚鵡のように、狩場で軍臣のいったことを繰り返した。
「失礼を承知で申し上げます。公主様も、太子を決して・・嫌ってはおられない筈」宴の中しばしば交わされていた視線、楽しそうな姚娥の声音を思った。「後悔・・なさいませんか。今はまだ太子には正式な妃はいらっしゃいません。ですが・・このまま単于の大勢の后の一人となられまして、太子が嫡妻をお迎えになり、お子を挙げられるのを傍らでただ眺めて・・後悔、なさいませんか」
「後悔・・」
「太子は案じてもおられるのです。単于はただいま、若い須卜氏という女人に夢中。畏れながら公主様が入る隙があるかどうか、と」
「・・そうですか」姚娥は深いため息をついた。「判りました。もう大丈夫、今夜は一人で休みます。中行説も今日は狩に行って疲れていることでしょう。自分の天幕でおやすみなさい」
「はっ」
 翌朝、軍臣が見舞いに来たが、姚娥は求婚のことについて何も話題にしなかった。

 丸三日、草原の天幕に留まって姚娥は元気を取り戻した。漠北の老上単于の王庭に到着したのは更にその三日後である。姚娥や中行説らは穹廬を連ねた王庭の一角に迎え入れられた。
 そこは真新しく設えられた穹廬であった。雪豹や黒貂の皮が贅沢に敷かれていた。また、瑪瑙や翡翠、玉などの宝石も、単于からの贈り物として次々に運ばれた。
 行列をはるばる護衛して来た漢兵も王庭の内部に天幕を張り、手厚くもてなされながら姚娥と老上単于の婚礼を待った。
 そしてその婚礼は単于の穹廬で盛大に催され、漢の将兵は満足して帰途に着いた。婚儀の後、姚娥の穹廬を老上単于は訪れたのは、夜が開けもはや昼近い時間であった。
「いやあ、儂も命は惜しいでなあ」軍臣によく似た風貌に、壮年の落ち着きを加え、単于は苦笑した。婚儀の準備の間に、軍臣は父を狩に誘い、言葉通りのことを実行したという。
「昨夜の婚儀で、我が許に漢の和蕃公主が輿入れしたという形は、整うた。公主はもはやわが妻、匈奴の風習とて妻を息子に譲るに、何の問題もない」
 中行説は思わずビクっと身を震わせた。(どう、答えられる・・)



Posted by 渋柿 at 16:36 | Comments(0)
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