2009年10月09日

「中行説の桑」59

「まあ、父が死ねば生母以外はみなこの身の妻に直るのじゃが・・中には我が褓(むつき)を替えてくれたものもあってなあ」
「それは、母君とそうお歳も変わらぬ方もありましょうなあ」
「それらの女人の老後も、母と同じく手厚く面倒を見るつもりじゃ。じゃがなあ・・それは公主も、父が死ねばわが妻となる。だが、どうもそれまで待てそうもない」
(まさか・・)「御父上を、弑されまするのか」
「滅相もない。ただ、婚儀の前に父と狩に行こうと思うて、のう」
「狩・・」
「そこで父上のご逝去まではとても待てぬ、公主を今すぐわが妻に賜え、と直談判するのよ」
「鳴鏑の茶番で嚇かした上で・・」(聞き入れずば冒頓単于のごときことをしでかすかもとの恐喝をするのか)
「おお。この慮外者、と首をはねられるかもしれんがの」
軍臣はニヤリと笑った。
「そこまで公主様に・・」単于は折れられるだろう、とは思いながらも、軍臣の真情は説の胸に迫った。
「惚れた。べた惚れじゃ。妻にするならあの女人しかおらぬ。何があっても妻にする。父などに渡すものか」
「もしも・・公主様が拒まれたら、何となさいます」
「力ずくで我に惚れさせて見せる」
(すでに公主様のお心は、軍臣様に・・)中行説は思った。高熱というのに軍臣の心づくしと聞いて、薤粥をたいらげた姚娥であった。
「中行説」
「はい」
「お前も公主に惚れているといったな」
「酔いにまぎれた放言、お忘れください」
「・・許せ」
 どうせ老上単于に嫁ぐはずだった姚娥である。中行説の「恋」は、万に一つもあろう筈はなかった。
「太子様も公主様もご生母は后族の蘭氏一族の出、まことにお似合いに存じまする」中行説は深く叩頭した。
 この日の狩は、兎・羚・雁・鴨と獲物が多かった。

「私は物ではありませんよ」
(やはり・・)中行説が予想した通り、その夜説から軍臣の求婚の意志をきいた、病床の姚娥は激怒した。
「私は、匈奴の単于に嫁いで参ったのです。はい、自分から嫁ぎたいと陛下に申し出て」
「それはよく承知しております」
「お断りしなさい。いや、明日の朝、私が太子に自分で断ります」
「お心のままに」
 まだ、姚娥の熱は完全には下がっていない。(感情を高ぶらせたら、また・・ぶり返しかねぬ)中行説は叩頭して天幕を出ようとした。
「ただ、どうか後々、後悔だけはなさいませんように」
 一刻ほどしてまた来るつもりであった。そのとき熱が引いていれば、今夜は姚娥を一人で休ませても大丈夫だろう。
「待ちなさい」姚娥が呼び止めた。半身を起している。



Posted by 渋柿 at 08:01 | Comments(0)
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