2009年10月08日
「中行説の桑」57
「いえ、私など一矢も放つことはないでしょうが・・」
「いやいや、今頃は南から鴨や雁が戻ってくる時期じゃ。獲物を期待しておりますぞ」
「鴨や雁ですか」
「昨夜の兎も有難かったが・・鴨の羹などこたえられぬ。明日もここで宿営なれば、馬乳酒もちと過ごせようなあ」
「私が申すのも何ですが・・馬乳酒にはご用心ですぞ」
「そうでしたな」長は頭を掻いた。
地平線まで広がる草原である。中行説は手綱にしがみつくようにして匈奴の一団を追いかけた。馬蹄に驚いて、草むらから何度か豺が飛び出した。
「豺は、捨て置け」とでもいっているのだろう、その都度軍臣は何か叫んだ。
御柳の生える泉の側で、軍臣たちは馬を下りた。それぞれ弓を手にしている。ガサッ。 御柳の枝が揺れ、羚が泉の方から姿を現わした。
(獲物だ!)中行説が箙から矢を抜かぬうちに、異様な音が空を切り裂いた。続いていくつもの矢が音と同じ方角に飛ぶ。(な、何だ)
どう、と倒れた羚には、蝟(はりねずみ)の様に矢が刺さっていた。
次の瞬間、今度は大空に向って唸る音が放たれた。またあまたの矢が続く。一呼吸おいて、空からどさりと雁が落ちた。流石に空を飛ぶ鳥を矢でとらえるのは難しかったらしく、胸を射抜いているのはただ一本である。
「鳴(めい)鏑(てき)・・」中行説も、話には聞いたことがあった。
作るに、牛や羚の角稀には木を削り、差し渡し一寸ほどの中空楕円の表面に数個の穴を穿つという。
これを鏃の先につけて飛ばすと風を切り、鳴音を発する。
「やはり知っておったな、そう、これが匈奴の鳴鏑じゃ」軍臣がいった。
「はい。御祖父冒頓単于様が月氏に人質に出られた砌、製法を学ばれた、と」
「この爺様、それでとんでもない事もしたのじゃが、無論承知して居ろうの」
「はっ」 中行説は困惑して言葉を濁した。
有名な話である。漢でも知れ渡っている。だがそれは中華の民にとっては不倫不義の極みであり、当事者の嫡孫たる軍臣の前で口にするのは憚られた。
匈奴の兵たちは、羚と雁に刺さる矢を回収していた。矢柄に損傷のないのを確認し、血糊を朝露の残る草で拭って箙に戻す。木竹が少ないこの地では、長城の内以上に矢は貴重品なのだろう。
軍臣が兵たちにまた言葉を発すると、彼らは一斉に叩頭したのち馬に乗り、思い思いの方向に駆け去った。草原に分散して、本格的に獲物を獲るらしい。
「いやいや、今頃は南から鴨や雁が戻ってくる時期じゃ。獲物を期待しておりますぞ」
「鴨や雁ですか」
「昨夜の兎も有難かったが・・鴨の羹などこたえられぬ。明日もここで宿営なれば、馬乳酒もちと過ごせようなあ」
「私が申すのも何ですが・・馬乳酒にはご用心ですぞ」
「そうでしたな」長は頭を掻いた。
地平線まで広がる草原である。中行説は手綱にしがみつくようにして匈奴の一団を追いかけた。馬蹄に驚いて、草むらから何度か豺が飛び出した。
「豺は、捨て置け」とでもいっているのだろう、その都度軍臣は何か叫んだ。
御柳の生える泉の側で、軍臣たちは馬を下りた。それぞれ弓を手にしている。ガサッ。 御柳の枝が揺れ、羚が泉の方から姿を現わした。
(獲物だ!)中行説が箙から矢を抜かぬうちに、異様な音が空を切り裂いた。続いていくつもの矢が音と同じ方角に飛ぶ。(な、何だ)
どう、と倒れた羚には、蝟(はりねずみ)の様に矢が刺さっていた。
次の瞬間、今度は大空に向って唸る音が放たれた。またあまたの矢が続く。一呼吸おいて、空からどさりと雁が落ちた。流石に空を飛ぶ鳥を矢でとらえるのは難しかったらしく、胸を射抜いているのはただ一本である。
「鳴(めい)鏑(てき)・・」中行説も、話には聞いたことがあった。
作るに、牛や羚の角稀には木を削り、差し渡し一寸ほどの中空楕円の表面に数個の穴を穿つという。
これを鏃の先につけて飛ばすと風を切り、鳴音を発する。
「やはり知っておったな、そう、これが匈奴の鳴鏑じゃ」軍臣がいった。
「はい。御祖父冒頓単于様が月氏に人質に出られた砌、製法を学ばれた、と」
「この爺様、それでとんでもない事もしたのじゃが、無論承知して居ろうの」
「はっ」 中行説は困惑して言葉を濁した。
有名な話である。漢でも知れ渡っている。だがそれは中華の民にとっては不倫不義の極みであり、当事者の嫡孫たる軍臣の前で口にするのは憚られた。
匈奴の兵たちは、羚と雁に刺さる矢を回収していた。矢柄に損傷のないのを確認し、血糊を朝露の残る草で拭って箙に戻す。木竹が少ないこの地では、長城の内以上に矢は貴重品なのだろう。
軍臣が兵たちにまた言葉を発すると、彼らは一斉に叩頭したのち馬に乗り、思い思いの方向に駆け去った。草原に分散して、本格的に獲物を獲るらしい。
Posted by 渋柿 at 08:24 | Comments(0)