2009年10月05日

「中行説の桑」50

 まったく記憶にない。自分がそんな大言壮語をしたとは驚きであった。
(そうか、俺は公主様に惚れていたのか)と、妙に納得する思いもある。
「心配するな、太子は口外なさるようなお方ではない」
(でも蘭牙様には告げ口なさった)内心、ちょっと引っかかる。
「気の毒だが・・お前は人畜無害の宦官じゃ。姚娥の身近に仕える者が、慕情だろうと忠誠心だろうと、そこのところはどうでもよい、命がけで姚娥を守ってくれれば、な」
「はい、それはもう」
「これも気の毒じゃが・・姚娥がお前を色恋の相手と見ることは、これは未来永劫・・」
「はい。ありえませんなあ」
 中行説は・・三十半ばの老上単于よりは若いかもしれぬが、十七、八の颯爽とした軍臣太子の男振りとは比べ物にならぬ。(いや、私は男、ですらない)
「それより蘭牙様。それから妹様にも、姚娥様にも二度とお逢いにはなりませんで?」
「・・儂はまた、死んだからなあ」
「死んだ?」
「漢と匈奴、互いに間諜を遣って狐と狸の化かしあいよ。儂は妹の裏切りの責任を取って自裁した・・ということにされた。いや、実際は冒頓単于のもとに連行され、それから一年丁零(バイカル湖沿岸)の土牢に閉じ込められた」
「漢の・・代王側の諜人に、あなたは死んだと思わせたのですね」
「もう一度死にでもせねば、長城の内にまた潜入は難しかったでなあ。だが、今はもう見破られているらしいが」
「二度、死なれたわけですか」
「三度目に死ぬ時は、さすがに本当にこの命が果てる時だろうよ」
 すべて判った。幼い頃の記憶の匈奴の交易者「酪の小父さん」が、漢の諸王の動静に通じていたわけも、その小父さんが代王劉恒に不思議と肩入れしていたわけも。
「説、匈奴の神を知っておるか?」
「神?漢と同じく、天を祀られておるときいておりますが」
「そう、漢の皇帝も天の命によって位に就いたとされておるのう」
「天の命が革まりますと、禅譲か放伐か、王朝が変わるそうで」
「われらも天を神として崇めておる。天神はこの大地を造り運命を司る」
「漢の天神と全く同じでありますな」
「じゃが、違う」
「漢の天神は、玄天・・北辰(北極星)であろう」
「はい。天にあって唯一不動に輝いておりますれば」
「匈奴のいう天の神は蒼穹じゃ」
「蒼穹・・」 青空にことである。
「蒼」は澄み切った青色「穹」はたとえば常設の天幕を穹盧というように半球状に上から被さるものをいう。



Posted by 渋柿 at 06:42 | Comments(0)
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