2009年10月01日

「中行説の桑」42

「待ってください。せめて、公主様を行列の馬車にお戻しするまで。何やらお疲れのようでもございます」
「待つ?」
 説は必死であった。
「いえ、お慈悲でございます。公主様が単于様と無事ご婚儀を挙げられるまで」
「慈悲?」
「はい、そうでなければ渭水まで見送られた皇帝陛下に申し訳が立ちません。はい、ご婚儀が済みましたら、逃げもお手向かいもいたしません、おとなしく殺されますので」
 軍臣は、まだ訳が判らずきょとんとしている。
「本当です。でも出来ましたら、殺して埋めるのは・・公主様が単于と睦まれ、お子をお挙げになるまで待って頂けたら有難うございますが」
「殺して埋めるぅ?」 
 何がどうしたというのだという態の軍臣を、説は更に掻き口説いた。
「我儘申しますが・・これも出来ましたら、その折、心の臓を一突きにして頂けますれば。私、あまり痛いのや苦しいのは、どうも苦手でございます」
 ぷっ、と公主が噴き出した。
「太子、晋の文公でございますよ」
「ああ、あの・・桑畑でしたか」軍臣が破顔した。
 晋の文公と桑畑の婢の話というのは、漢では士大夫の常識であった。春秋五覇の一人晋の文公は、若い頃継母に陥れられ一旦斉に逃れた。そしてそこで斉の桓公の公女を娶り、若い妻との楽しい暮らしに溺れ、文公は帰国の意思をなくしてしまう。家臣たちは何とか文公を晋に連れ戻そうと桑畑で密談する。
それを樹上で公女の侍女が聞いて、公女に注進する。
 しかし、公女は秘密が漏れぬよう侍女を密かに殺して埋めてしまうのだ。
 公女は夫文公に「身分賎しい輩は口さがない、私が始末いたしました、早く家臣と一緒に斉を立ち去ってください」という。



Posted by 渋柿 at 08:05 | Comments(0)
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