2009年09月07日

「中行説の桑」10

 説は、今でも十一歳のこの日のことを繰り返し思い出す。あの年が、説が家族と過ごした最後であった。

 真夏、小屋の蚕が黒ずみ、蕩け、煮繭のときの数倍の悪臭を放って・・次々に死んでいった。今でいうウイルス伝染性硬化病である。そのゆえに・・中行説は、宦官となった。去勢され、まず燕王呂通の宮に入ったのである。
 高祖の頃から地方王は「閹児」と称して数年に一度、去勢した幼い少年を長安の皇帝に献じていた。
 蚕を孵そうにも、代わりの種蚕は、すぐには手に入らなかった。
一家の暮らしを支えるには、春蚕の絹だけでは到底足りなかった。父は家族が飢えから免れるため、泣く泣く説を燕王の閹児募集に応じさせたのである。去勢・・男性器を断ち、生殖能力を失わせることである。後宮に奉仕させるためである。
多くの姫妾を蓄える王侯たちは、後宮を維持するため、この「男性でない男性」の手をを必要とした。
 一方、「孝」を最高の徳目とし、子孫を絶やし先祖の祭祀が絶えることが、「最大の不孝」であるとする倫理も、確固としてあった。生殖能力のない宦官は卑しいものとされ、蔑まれもした。
 とまれ、選ばれた数人の閹児の親には、それぞれ燕王から穀物が下げ渡された。説を売った中行家は、種蚕が手に入るまでその穀物で命を繋いだ。中行説は、故高祖劉邦の皇后、呂太后が執政していた当時の長安の宮廷で、宦官として仕えはじめた。

 少々の学問の手ほどきは、父から受けていた。だが宮廷での行儀、歩き方から辞儀の仕方まで、作法は恐ろしく煩雑であった。間違えると先輩宦官から容赦のない叱責、時には鉄拳が飛ぶ。宦官の職務は宮中の雑用すべてである。年功で、また幸運に恵まれて皇帝の秘書的役割や後宮の監督を担う宦官もいるが、それは全宦官のごく一部にすぎなかった。中行説も朋輩達に交じり、広大な宮殿の室内や庭園の掃除、汚物の収集処理などに追われた。
「今日は石渠閣じゃ。充分気を配って、の」
「はい」
 先輩宦官の張沢が、説たちに声を掛けた。
 三十近い歳であろうか。先輩たちの中には厳しく強(きつ)い者が多いが、稀に後輩に優しい者もいる。この張沢はその稀有の一人であった。
「皆、石渠閣に入るのは初めてだったなあ」
「はい、天禄閣にはこの前参りましたが」
 石渠閣、天禄閣、いずれも王室の図書や諸記録を蔵する、いわば図書室の機能をもつ高楼である。この時代まだ紙は発明されていない。



Posted by 渋柿 at 17:26 | Comments(0)
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