2009年09月04日

「中行説の桑」3

 とにかく桑がなければ、蚕は飼えないのである。蚕は大量の桑の葉を食べながら四回の脱皮を繰り返し熟(じゅく)蚕(さん)となる。熟蚕は一日に二回桑の葉を摘み、四回桑を与え、一回は食べ残しや糞の掃除をせねばならない。
 その上、桑につく毛虫は夏が近付くと爆発的に増える。その駆除も欠かせない。また蚕が蕩けたり硬くなって死んでいく病気も怖い。七日に一度、小屋に酎を撒いて病の瘴気を防ぐ。
 養蚕は一年に三世代、翌年春まで眠る卵を産ませるまで、春(はる)蚕(ご)・夏蚕・秋蚕と続くが、最も品質がよく高値で売れるのは春蚕の繭から織った絹である。中行説一家が生きていくためには、何としても、少しでも多くの繭を採らなければならなかった。
 繭となった蚕は、交尾産卵させて卵を採るものを取り除けて、一度大鍋で煮てからほぐし生糸とする。その繭を煮る臭いは、慣れぬものには耐え難い悪臭である。
(こんなに苦労して一家総出で働いても、長城で騒ぎが起これば・・)それは無に帰すかもしれない、と説は上を向き続けて痛む首筋を撫でながら、ぼんやり思った。
「帰るぞ」 桑畑に夕闇がやや濃くなり始めた頃、やっと長兄が説たちに告げた。
 今日落とした枝は、このまま畑で枯らしてから集め、炊事のための燃料とする。桑畑と道を隔てた蚕小屋に戻ると、その脇、ただ一本畑を離れて植えられている桑の樹に、見覚えのある葦毛の馬が一頭つながれて、足元の草を食んでいた。小屋の中から、これも聞き覚えのある訛りの強い声がする。
「では、どうしても卵はだめですかい」
(あっ、酪の小父さんだ) 
「無茶をいうもんじゃないよ。元々表向き、あんたらと交易することからして禁じられている。絹と毛皮くらいは大目に見てもらえても・・塞(とりで)(長城)の外の人間に卵や繭を売ったら、私ら首が飛ぶ。売れるのは織りあがった絹だけさ」苦笑交じりの父の声もする。
「冗談だよ。こちとらも蚕の卵など物騒なものをもって長城を越えようもんなら、命がいくつあっても足りゃしない。漢兵にでも見つかったら首と胴の泣き別れじゃ」
「じゃ、秋蚕の巻絹二匹を持っていきなされ。そちらから頂くのは塩一瓶、酪一壷、馬乳酒一壷、干肉一斤、兎の皮は十枚は頂こう」
「殺生な。兎皮を十枚も付けるなら、巻絹は三匹は貰わねば」
「あんた匈奴のくせに、商売上手じゃなあ。わかった。そちらの言い値で交換しよう」
「さすが中行さん、物分りがいい」
 二度、大きく手を打つ音がした。
 ここ燕の造陽は、燕の時代に遊牧民族、匈奴の武力侵入を防ぐために作られた長城のすぐ近くにある。



Posted by 渋柿 at 06:53 | Comments(0)
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