2009年09月03日

「中行説の桑」1

  一
「おい、手を休めるな」頭上の、桑の大枝に跨った一番上の兄が、怒鳴った。
「疲れた」中行説は、思わず答える。
「みんな泣言いわずに頑張っている。今日中にこれを終らなければ、仕事が間に合わないんだぞ」
「はい・・」
 もう、日は傾きかけている。朝からずっと、畑の一隅に桑の苗を植えていた。
 根を傷めぬように抜き、土を深く広く掘って大切に土を被せる。こうして、去年の桑の種を播いて一寸ばかりに育った桑苗を、成長を見極めて選び、長兄の指示で等間隔に植えるのだ。桑は、桐と並んで成長が早い。祖父が植えた桑樹は三〇年近くを経て今が樹勢は最盛期であるが、あと十年もすれば次第に衰える。もっともそれは蚕の餌を取る為の樹勢に限ったことである。桑の木の寿命そのものは長く、樹齢数百年という桑も確かに存在はするのだが。
 ただ、養蚕を業とする以上次の世代の桑は、末の説まで含めた兄弟姉妹四人が、今のうちから苗を作り、植え育てなければならない。太陽が南を過ぎても、説たちは父母のいる蚕小屋に帰らず苗を植えた。そのあとこれも長兄の指揮で、各々刃の潰れた小鉈で大木といっていい古桑の、余分の枝を落としている。上の兄二人は、地面からは手も届かぬほど延びた桑の木に登り、樹上で枝を打っている。説と姉が、樹上から落とされた枝を片付け、更に地面から届く範囲の枝打ちを受け持っていた。
 口にしたものといえば昼頃、引き割り燕麦の焦がしを噛んで水を飲んだきりである。
 桑の陰もずいぶんと長くなっていた。水辺の柳が芽吹き、桃の花がほころびていた。これから桑の葉も萌え、開き、やがて柔らかく夭々と茂っていく。このようにして毎年季節は繰り返し、中行説の一家も忙しくなっていくのである。
 中行氏は春秋時代の晋の重臣である六卿の一人中行桓子の裔(すえ)だと、父は言っていた。そして氾氏や智氏と共に、戦国時代直前に同じ六卿の韓・魏・趙の三氏に滅ぼされている。三氏は主である晋を簒奪し分割して自分のものとした。この三氏の主家簒奪が、天子である周王室の権威が曲がりなりにも守られていた春秋時代の終わりとされる。そして韓・魏・趙の成立によって、下克上弱肉強食の戦国時代の幕は切って落とされた。
 中行氏は貴族・豪族として滅びた後、三氏が立てた国の中の一つ、趙国の代の庶人となったのだそうである。父の言うことが本当だとしても、今はもう二百年以上の時が過ぎている。韓魏趙を滅ぼして天下を統一した秦さえ滅び、沛公(はいこう)劉邦が楚の項羽に競り勝って樹立した漢王朝の時代である。いつから家の生業(なりわい)が養蚕・製糸・機織となったのかは定かでない。説の祖父の時代、秦の始皇帝が趙を滅ぼし、その亡命政権であった代をも陥落させた。その時、祖父は一族を連れて更に東の燕の国、造陽に逃れたらしい。そして、携えてきた僅かな蓄えで畑を買った。



Posted by 渋柿 at 08:12 | Comments(2)
この記事へのコメント
また、読ませて頂きます!

私にとって一番思い入れの大きい作品ですから。
Posted by 昏君昏君 at 2009年09月03日 10:13
呂后末期から文帝、景帝を越えて武帝期、中行説には愛妻と養子、司馬遷三代に張騫までからんだハチャメチャ十万字(350枚)・・・お騒がせいたします(^^;
Posted by 渋柿渋柿 at 2009年09月03日 12:51
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